加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース

 フライングタイガースというのはアメリカ陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートがルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集めた航空部隊でアメリカの中立という立場から(義勇兵)という形で、中華民国軍として兵籍に入りました。ほとんどは米軍人で退役の形をとりましたが、米軍復帰は約束されており、真珠湾攻撃前の姑息な方法によるアメリカのの参戦であり、中立違反です。(アメリカ合衆国義勇軍AVGという)

 このフライングタイガースと加藤隼戦闘隊が激戦を交えています。

 昭和16年(1941年)12月25日のラングーン空襲で、25機の隼で九七式重爆撃機を護衛していた時にフライングタイガースと交戦。
 昭和17年(1942年)、加藤隼戦闘隊はチェンマイ飛行場に集結。フライングタイガースはビルマのロイウィン、ラシオ付近に展開していました。この頃に一式戦闘機は「隼」と命名され、加藤部隊歌の「隼は往く」に偶然?合致しました。
 4月6日、フライングタイガースP40トマホークがチェンマイ飛行場を空襲します。P40の航続から考えると不可能と思われていましたが、中継基地をつかっての空襲であり、奇襲となりました。
 4月8日、加藤隼戦闘隊はロイウィンを攻撃します。しかし、待ち伏せされ、苦しい戦闘の末、戦死1、未帰還3という結果となります。フライングタイガースは現地のシナ人を使って地上から監視させ、無線などで敵機の進行コースなどをAVG司令部に知らせていました。
 4月10日、加藤隼戦闘隊は今度は払暁攻撃(あけがた)をかけます。これは成功し、部隊はチェンマイ帰還後、直ぐ第二撃に飛び立ち、ロイウィンを攻撃します。4月28日にはビルマのマグウエ基地に前進し、ロイウィンを攻撃。このとき平野伍長機は撃墜されますが、伍長は落下傘で脱出し、敵地から奇跡的に生還します。29日のラシオ攻略の陸軍落下傘部隊の護衛では安田曹長機が撃墜されるも胴体着陸し、これも敵地から奇跡的に生還しました。フライングタイガースは4月30日には昆明に退却し、7月3日には解散しました。(中国空軍起動部隊(CATF)に編入)



 エンジンの音 ゴオーゴオーと

 隼は行く 雲の果て

 翼に輝く 日の丸と

 胸にえがきし 赤鷲の

 印はわれらが戦闘機



参考文献
 「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人著
 「歴史通」WiLL2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
参考サイト
 WikiPediaフライング・タイガース」「加藤隼戦闘隊」

添付画像
 一式戦闘機二型(キ43-II)。飛行第25戦隊第2中隊附大竹久四郎曹長機(PD)

 加藤隼戦闘隊 -Kato Hayabusa Fighter Wing- http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w

http://http://www.youtube.com/watch?v=MS12isLjS5w

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