真珠湾の朝

 昭和18年4月に米のブレーク・クラークという人の著「真珠湾」が翻訳出版されています。戦時中に翻訳出版されていることにちょっと驚きますね。

GHQ焚書図書開封より

 ふいに、ヤマトという日本人が駆け込んできた。
「飛行機が、えらく沢山やってきましたよ!」
と彼は大きな声で叫んだ。
「早く来て御覧なさい!さあ、早く来て!」
その日本人が走っていった裏口の方へ、私たちも走った。飛行機の大編隊が、青空高く、飛んでいた。真珠湾の上空に、高射砲の黒煙が、点々と重苦しく引っかかっていた。
「おお、やっとる、やっとる!」
とフリーア氏が感嘆詞を発した。
「防空演習大いに結構、なにしろ常日頃の用意が肝心じゃて」
 ところで、私どもの隣人に、クレーアと呼ぶ婦人がいる。かつてプナフ学校で老若男女のために教鞭をとっていたことのある人だが、この時、クレーアさんが、とつぜん部屋を突っ切って走りこんできた。
「空襲よ!空襲よ!日本の飛行機がオアフ島を爆撃しているんです!」

 民間の様子のほか軍基地の様子も書かれています。取材したのでしょう。

 (カネオエ海軍航空基地の司令官が朝食のコーヒーを息子と飲んでいるとき)
 ふと司令官は、クーラウ山の方向に、爆音を聞いた。窓から外をのぞくと、三機編隊の飛行機が三群、海軍飛行基地のある湾の入り口へ向かって、低く、まっしぐらに入って行くのが見えた。
「なんという馬鹿者だ。基地へまっすぐ入ってきてはいかんと、あれほど厳重に警告しておいたのに−」
 と司令官は、びっくりして、飛び上がりながら叫んだ。
 すると十五歳になる息子が、ふいに、こんなことを言った。
「お父さん、あの飛行機には、日の丸の標識がついているよ」
 その息子の言葉を聞くか聞かぬかに、はじめて事の真相をさとった司令官は、あわてふためき、ただちに自動車を駆って司令部へと急行した。

 この著者は日本の高高度からの爆撃など日本の掃射と爆撃の様子を主観を加えず淡々と記載しています。また米軍の対空砲火の様子も細かく書いています。艦が爆撃された様子も乗組員から取材したと思われる記載を残しています。アリゾナ轟沈の様子も書いています。日本軍は市街地は攻撃していません。

 そしてこの著者は意外なことを述べそしてやはり「だまし討ち」と言っています。

 真珠湾に対する日本軍の大胆不敵なる攻撃は、まさしく世界的な意義を有するものである。まず第一に、それは、枢軸国の実力について、われわれに新しい概念を与えてくれた。われわれは、日本人は独創力と想像力に欠けている − わずかに能力がありとすれば、それは単に模倣性にしかすぎぬといったような根も葉もない話ばかり、今までに聞かされてきた。
 もしそれが真実であるとするならば、日本海軍の軍艦は、荒天に乗り出すや否や、直ちに一隻残らず転覆していなければならぬはずである。
 いまや、われわれは、かかる楽観主義的な見解を一擲(いってき)しなければならぬことを学んだのである。 かつて、いかなる国家に与えられたこともないような、攻撃作戦を計画し実行した日本海軍軍令部を、いかにわれわれが憎むにしても、われわれは、このお返しを、そっくりそのまま、かれらに返上してやらなければならぬ。日本軍のこのだまし討ちは、平和な国家に対するヒトラーの電撃作戦をすらも、しりへに瞠若(どうじゃく)たらしめるものである。ヒットラーと同様、緒戦の一撃だけは、確かに彼等も成功した。もし、その論理性さえ問題にしないならば、日本軍の攻撃ぶりの想像を絶した勇敢さだけは − 敢えて称賛するとは言わざるまでも − われわれといえども認めざるを得ない。わずか○時間と○○分という短時間の間に、日本海軍と其の航空部隊は、一挙に不可能を可能としたのである。

 「だまし討ち」という宣伝は効いているようです。しかし、日本は物まねザルという認識を改めなければならない、不可能を可能にしたことは認めざるを得ないといっています。米軍首脳部も日本に最初の一発を撃たせるにしても大損害までは想像していなかったでしょう。



参考文献
 「GHQ焚書図書開封西尾幹二


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