英軍の日本兵捕虜の虐殺


 1944年(昭和19年)3月インパール作戦が発動されます。この頃は既に米国から英軍にM4戦車などの優秀な装備が手渡されており、日本の対戦車砲は歯が立たず、2ヶ月にわたる激戦の末、日本軍は撤退します。そしてここから英軍は日本軍を追撃していきます。戦闘だけでなく捕虜となった日本兵士の大虐殺を行います。


15師団栃平主計曹長の記録

 川沿いの道に移送を待っていた重傷者30人の担架が見えた。グルカ兵が数人、容器に入れた水を担架にかけて行った。焼け付くような日差しだった。おそらく傷病兵のために冷たい水をかけたのだろうと思った。次の瞬間、担架が燃え始めた。見る間に黒煙があがり、あたりは火の海になった。彼等がかけたのはガソリンだった。

 グルカ兵がご主人の英軍の言いつけで足手まといの日本軍傷病兵捕虜を焼き殺したのです。英軍は日本軍の野戦病院も攻撃し、そこの日本軍傷病兵を道路に並べ、将官クラスは後で尋問するのかトラックに載せ、残った日本兵はガソリンをかけ焼き殺しています。疫病の伝染を防ぐ目的もあるのでしょうが、生きたまま焼き殺すとは・・・

 戦争が終わった後、日本兵は捕虜となり強制労働に従事させられます。その中で次のような話があります。

 イギリス軍は日本人捕虜の一群を川の中州におき、食糧をほとんど与えませんでした。その中州には毛ガニが棲息していますが、赤痢菌まみれで食べれない。イギリス兵は決して生食しないよう警告しますが、日本人捕虜は耐えがたい飢えのため毛ガニを食べ、次々に死んでいきます。看視のイギリス兵は「日本兵は衛生観念不足で自制心に乏しく、英軍の度重なる警告にもかかわらず生カニを捕食し、疫病にかかって全滅した。遺憾である」と上司に報告しました。



参考文献
 「歴史通」WiLL7月号別冊『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『イギリス軍捕虜収容所の悲惨』岩田温
 「アーロン収容所」会田雄次

添付画像
 インパール-コヒマ間の路上を進撃する戦車を伴ったグルカ兵(PD)

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