大東亜戦争

東條内閣誕生

昭和16年(1941年)10月18日に東條英機は第四十代内閣総理大臣に就任します。東條英機は近衛内閣のときには陸軍大臣でした。日米交渉にかける近衛首相は支那からの撤兵の譲歩が必要だと東條英機を説得しますが、東條英機はガンとして受け付けませ…

よもの海

1941年7月31日、永野修身軍令部総長(海軍)は昭和天皇に主戦論を言上します。石油の備蓄は約2年であり、ジリ貧になるくらいなら機先を制して抗戦する論が有力になってきたのです。 そこで近衛首相はホノルルでの日米首脳会談に打って出ます。及川海…

日本を締め上げ挑発せよ

米国が日本が開戦に踏み切るよう先に手を出させるように挑発した行為にハルノートや禁輸措置があげられます。1940年10月作成のマッカラムメモランダムにはオランダが日本資源を提供しないよう働きかけるというのがあります。1940年秋から1941…

マッカラムメモランダム

米海軍情報部極東課長のアーサー・H・マッカラム海軍少佐は1898年長崎に生まれました。少年時代は日本の諸都市で過ごし、日本文化を理解し、18歳のときに米海軍兵学校に入学し、卒業後、駐日アメリカ大使館付海軍武官を命ぜられて来日します。米大使…

日露戦争後の米の日本打倒計画

日露戦争中に米は陸海軍合同で米英日連合軍と露仏独の連合軍が極東で戦う想定で図上演習を反復し、結果、米海軍は極東では極めて非力の結論に達します。しかもロシア海軍を欠いた海戦では日本海軍は単独でも独仏海軍に勝利できるという結論がでて衝撃をうけ…

日本のシンドラー 東條英機

昭和13年(1938年)2月、ナチス・ドイツの迫害から逃れた大量のユダヤ人難民の第一陣がシベリア鉄道に揺られて満州国の最北端の満州里駅のすぐソ連側にあるオトポールに到着しました。その数は2万人にまで膨れ上がります。ソ連は難民の受け入れを拒…

日本のシンドラー 杉原千畝

「6,000人を救った命のビザ」で杉原千畝は大変有名だと思います。 1940年7月、ナチスドイツに追われたユダヤ人たちはリトアニアに逃れ、日本の領事代理だった杉原千畝に日本通過ビザを求めて殺到します。しかし、日本外務省は行き先国の入国手続き…

戦前、天皇は神だったのか

戦前は天皇は神とされ、皆狂わされて戦争へ向かっていった・・・これが私が受けてきた教育です。でもよく考えると、戦前の日本人の教養ってそんな程度?文明人じゃなかったの?というレベルの話で、私の祖父母ってそんなバカだったのか?と考えるとそれはな…

劣化した日本

高知市に住む吉村泰輔さんは家が昭和十九年春から海軍の士官クラブに指定され、高知海軍航空隊から四人の少尉達が週一回泊りがけで寛ぎにきていました。四人の少尉のうち、二人は転勤し、青木少尉、佐藤少尉は志願による特攻決定。吉村さん自身も昭和二十年…

大東亜戦争の終わらせ方「西亜作戦」

日米開戦に際して、昭和天皇が「終戦の在り方は考えないのか」と言われたことから策定された「対米英蘭戦争終末促進に関する腹案」に西亜作戦があります。ペルシャ湾、紅海を制圧し、インド独立軍を支援するものです。 1941年12月10日マレー沖海戦で英戦艦プ…

ロシアから支那、朝鮮の領土を守ったのは日本

1931年(昭和6年)9月18日に満州事変が勃発します。満州は当時、日露戦争によって日本が権益を得ていました。もし、ロシアの侵略に対して日本が戦わなかったら満州も朝鮮半島もロシアのものになっていたし、弱体化していた清に攻め込みどこまで侵略し…

米国の横暴

思想家、大川周明氏が1941年12月に行った演説にはロンドン軍縮会議の日本の弱腰外交につづいて米国のカリフォルニア州の排日問題についても述べています。 大統領ルーズベルト(セオドア・ルーズベルトのほう)日本人はかくの如き侮辱を感受する国民で…

弱腰外交に国民が怒った「ロンドン軍縮会議」

1930年ロンドン軍縮会議が行われ、前のワシントン軍縮会議に続いて今度は巡洋艦以下の補助艦艇についても制限が設けられ、日本は譲歩させられます。よく統帥権が持ち出され、怒った軍部が暴走していったかのように言われますがそうでしょうか。 アメリカ…

ポツダム宣言の詐欺

昭和20年7月26日連合国よりポツダム宣言が発せられ、8月10日に日本側は受け入れを連合国側へ通達。9月2日降伏文書に調印しました。 降伏文書調印後、四日後の米国統合参謀本部からマッカーサー宛の通達文書「・・・われわれと日本との関係は、契約…

ベトナムの援蒋ルート

援蒋ルート(えんしょうるーと)とは大東亜戦争時に主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するための輸送路のことでビルマルートが有名だと思いますが、仏印ルート(ベトナム)もあり、英米が金を出してフランスの物資を買い、雲南省へ輸送させ…

沖縄県民斯ク戦ヘリ

本日は沖縄の慰霊の日です。沖縄戦でなくなられた方々のご冥福をお祈りいたします。今ある平和は英霊の方々の犠牲の上に成り立っており、私たちはこの平和を守っていかなければならないと感じます。それから沖縄戦史を学んだきた上でもう一つ感じたことがあ…

沖縄戦 − 米軍の所業

1945年6月15日、沖縄戦も終盤。沖縄上陸米軍最高指揮官バックナー陸軍中将は日本軍に降伏を勧告します。ここでバックナー中将が戦闘観望中に日本兵に狙撃され死亡してしまいます。(日本軍の榴弾が落下して爆発し被弾説もある)戦闘を優位に進めてい…

沖縄へ向かった戦艦大和の使命

1945年4月7日菊水作戦において米軍機動部隊の延べ380機以上の航空機による猛攻撃を受け沈没した戦艦大和ですが、なぜこの作戦が行われたか、本当に片道燃料だったのか、諸説あるようです。一億総特攻の魁(さきがけ)として作戦が立てられた、沖縄…

沖縄では日本軍がいたところで集団自決が発生したのか

「日本軍がいたところは集団死が発生した」というのを聞いたことがあります。これは誤りで米軍が来たら投降するように日本兵が助言して助かったところ(ヌチシヌジガマ)もあれば、米軍の投降呼びかけに対して民間人が自決しようとしたところに軍人がいて刀を…

死線を越えた人たちの再会 - 渡嘉敷島

渡嘉敷村から送られた慰霊祭のスケジュールを受け取った赤松元大尉は出席の意向を伝え、昭和四十五年三月二十六日に那覇に到着します。そこで大ブーイングを浴びますが、村の人々とともにその場を後にします。 以前、「たかじんのそこまで言って委員会」で集…

苦しんだ果ての証言 - 渡嘉敷島

渡嘉敷島の集団自決について照屋昇雄さんが証言しています。戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった人です。座間味と同じようにやはり援護法に基づく年金や弔慰金の支給が絡んでいました。同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっ…

言えなかった真実「宮平証言」座間味島

宮平秀幸氏は座間味島の集団自決時の生き残りでしたが、その時の証言することを避けていました。その理由は集団自決は軍命令ということで座間味村は援護法の適用を受けて国から累計で億単位にもなる年金・給与金を受け取っていたからです。しかし、県民大会…

沖縄にスパイがいたのか

以前「たかじんのそこまで言って委員会」で沖縄集団自決のところで「スパイだといわれて日本兵に殺された人がいます!」と大声で叫ぶ人がいました。スパイは本当にいたのでしょうか。 「沖縄戦集団自決の謎と真相」で『沖縄戦における軍官民関係』(原剛)に…

持久戦をとる沖縄防衛軍

沖縄戦は本土決戦の準備のため時間稼ぎで持久戦をとったというのを聞きます。実際は最初から持久戦を考えていたわけではなく、当初は沿岸決戦を計画したようですが、1944年10月に米軍がレイテに現われたため、沖縄の第九師団が台湾へ異動してしまい作戦が成…

沖縄戦を考える − 沖縄の疎開事情

大東亜戦争の沖縄戦では島民を巻き込んだと聞きます。政府、軍部は島民を避難させなかったのか?という疑問がでます。硫黄島でもペリリューでも住民を避難させています。硫黄島では1000人ぐらいの島民がおり、軍属として徴用された者(約230名)以外は皆疎開…