英霊は心ならずも命を落としたのではない



 つわ者は今日も死にてあり菖蒲節
 
 日本学芸新聞にある作家がこの句を載せたところ「人間親鸞」という本を書いた石丸梧平氏が怒って以下のように書きました。



「生死直面」石丸梧平 昭和15年3月(GHQ焚書図書開封3)



 「今日も死にてあり」というのは、無論、今日もたくさん死んだ、昨日の新聞記事でもたくさん死んでいた。これは二年間毎日この通りであるという意味であろう。XXX氏(句を詠んだ作家)は戦場におけるつわ者たちの消息を、単に「死にてあり」というような言葉で表現している。「名誉の戦死」とは云わないで(そう考えないからであろうか)「死にてあり」とは甚だ無礼である。死にたくない若者を殺しているとでも考えているのだろうか。そのための皮肉を表現するつもりの言葉だろうか。しかし、日本の忠誠な国民は、XXX氏が考えるような気持ちでは談じてない。無論戦場だからと云って、むやみに犬死することは誰も望んでは居らぬ。けれども意義ある戦闘に戦死することは名誉である。

 石丸梧平氏は当時の通常の考え方をしていると思います。当時は非常時であり、言うまでもなく、大東亜戦争は国家の命運をかけたものです。石丸氏はこの句は遺族への同情も入っているとして以下のように述べています。


 だが、私が遺族であるなら、断じてそのような同情は望ましくない。あまりにもけがらわしい。無論戦死するよりもしないほうが良いと思うであろう。もっともっとお国のためにお役に立つべく生きていたほうが良い。また個人的感情から云えば、無論死なせたくない。しかし、今は非常時である。国家の運命を賭して戦っているこの大戦争である死ぬべきときは死なねばならぬ。「死にてあり」ではない。名誉の戦死として進んで死ぬのである。この名誉ある戦死者に「今日もまた死にてあり」は、あまりにも侮辱した言葉ではないか。

 現在の論調は大東亜戦争で命を落とした兵士は「国家に騙されて犬死したかわいそうな被害者」というのがあります。電気通信大学名誉教授の西尾幹二氏によると2006年小泉首相靖国に参拝したとき「戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲の・・・」と「心ならずも」と表現しているところに「死にてあり」と同じであると指摘しています。もちろん心ならずも死んだ人もいるでしょうが、国家の非常事態に国民のために命をかけた人が大勢いた時代です。名誉ある戦死、英霊というべきでしょう。

 逆に「心ならずも」生き残った人もいるわけです。以前、神風特攻隊で生き残った人の記録を読みましたが、平和な時代に生まれ育った私など「運よく生き残った」と思い、ハっとします。その人は「心ならずも生き残った」のですね。「運がよかったね」というのはその人に対して適切な言葉ではないということです。平和にひたってしまっている自分に気づく次第です。



参考文献
 「GHQ焚書図書開封3」西尾幹二

添付画像
 靖国神社の特攻勇士の像(JJ太郎撮影 PD)


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