日米開戦の「最後通牒」手交の遅延は大使館の怠慢

 真珠湾攻撃は「宣戦布告前」に行った日本の騙まし討ちといわれたのは対米覚書「最後通牒」の手交が遅れたことが原因とされています。
 外務省はワシントンの野村大使に対米覚書を14項にして発信し、機密保持のため「タイピスト」を使わないように指示がでていました。そのため奥村書記官がタイピングを行い、緊張のため平時より速度が遅い上、間違いも多く、作業を終えたのは外務省の交付を指示した午後1時をまわり、午後1時50分となってしまいました。

ワシントン時間1941年(昭和16年)12月
 パイロットメッセージ      5日「明日から外交電文を送る」
 大使館の電報に海軍武官が気づく 7日午前9時
 真珠湾攻撃           7日午後1時20分頃(ハワイ時間7時49分頃)
 タイプ作業終了         7日午後1時50分
 ハル国務長官に手渡す      7日午後2時20分

 実は米側はパイロットメッセージからすでに傍受しており、14項目中13項目はワシントン時間6日午後4時には英訳に書き換えられ、午後9時30分にはルーズベルト大統領に手渡されました。ここでルーズベルトはこう言います。

「これは戦争を意味する」

 残りの1項目と書類を米側に手渡す時刻の電報もワシントン時間7日午前10時には解読を済ませていました。ですので、野村大使がハル長官に覚書を手渡したときはハル長官は読んだフリをしたようなもので、「過去9ヶ月間における貴官との全会談中、自分は、一言も嘘を言わなかった。(中略)50年の公的生活を通じ、自分はこれ程不名誉な虚偽と歪曲に満ちた文書を見たことがない」と言ったのは演技のようなものでした。

 パイロットメッセージがきて6日中には電文が届いているのになぜ、日本大使館は解読、タイピングに手間取ったのか?これは6日の夜に大使館員の一人の送別会があり、皆、帰ってしまっていたためです。ですので、7日朝に電報を読んで震え上がったわけです。予告電報が来ているのに送別会を優先させ、しかも午後1時に間に合わなかった。このことを隠すため東京裁判でも関係者は口を閉ざし、戦後ずっと伏せられてきました。上智大学名誉教授の渡部昇一氏は当時を知る外交官にこの事実を確認しています。渡部氏は、もし、この時の外交不手際の外交官が切腹でもして詫びていたら対米戦はもっと早く終わっていたかもしれない、と述べています。



参考文献
 「真珠湾の真実」ロバート・B・スティネット著
 「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助編
 「渡部昇一の昭和史(正)」渡部昇一
 「秘録 東京裁判清瀬一郎著
添付画像
 真珠湾で攻撃を受ける米戦艦ウェストバージニア(PD)

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