身を殺して仁をなした日本 〜 タイから

 大東亜戦争末期のタイでは連合国で結成された「自由タイ」がタイ国内の反ピブン勢力と連動し、ピブン政権は総辞職することになります。続いてクアン内閣は自由タイの活動を支持しました。日本がポツダム宣言を受諾した翌日の昭和20年(1945年)8月16日にタイは無署名の宣戦布告は無効と宣言し、日本の強制下のやむをえないものであったと国際社会に訴えました。これにアメリカが受け入れを表明したことからタイは親米政権を立ち上げイギリスを牽制することに成功します。

 タイでは大東亜戦争の終わり方が反日方向だったので、日本への感情がよくないものかといえばそうではありません。タイの首相になったククリット・プラモード氏の言葉は有名でしょう。


 日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話しができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身と賭して重大な決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはいけない。

 戦後、タイは日本に貸し出したお金の値引きを了承しました。そのときの返済交渉団にいたソムアン氏はこう述べています。
「日本国民は餓死寸前の時でありました。日本中が焼け野原でした。そして皇族も華族もいなくなり、有力な軍人と賢明な役人と高潔な政治家は牢に叩き込まれて誰もいません。アメリカはそっくり返って威張っている。団員は口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」と言いましたよ。だから、私に向かって池田勇人蔵相が熱心に払えない理由を釈明していたけれど、全然聞いていなかったのです」

「『国に帰ったら、殺されるかな』とフッと思った。けれど、『まあいいや、友邦日本は悲惨な状態なんだから』と自分に言い聞かせました」

 タイから象の花子さんが贈られたことを知っている人も多いのではないでしょうか。

 タイ北部のバーイ川には昭和17年(1942年)に架設された鉄橋が残されています。日本軍の建設によるもので、プミポン国王が保存を命じたのではないかと言われています。泰緬鉄道も保存され、日本の機関車も保存されています。日本製の海防艦トンブリ」軍艦「メコン」もスクラップにせず保存しているといいます。メーホンソンにはクンユアム旧日本軍博物館があります。



参考文献
 「物語 タイの歴史」柿崎一郎著
 「アジアに生きる大東亜戦争ASEANセンター編
 「歴史通」WiLL2009.7月号『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之

参考サイト
 地球史探訪:日泰友好小史(下) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog064.html
 クンユアム第二次大戦戦争博物館 http://www5f.biglobe.ne.jp/~thai/index.html

添付画像
 プーミポン・アドゥンラヤデート国王を讃える肖像画(Adam Carr所有)
 


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