加藤隼戦闘隊


 加藤健夫率いる加藤隼戦闘隊はシナ事変、ノモンハン事件、マレー戦、ビルマ戦で活躍しました。加藤部隊はシンガポール航空撃滅戦、ジャワ航空戦、ビルマ・ロイウィン攻撃では一旦出撃して一撃を与え、帰還すると直ぐ出撃して再攻撃するというピストン攻撃を行っており、「こちらもつらいが、敵はなお苦しいのだ」と部下を激励したといいます。戦隊の安田准尉は「体力の限界をはるかに超すもので、ただ気力で支えられていた」と40歳の加藤部隊長の馬力には恐れ入ったと述べています。

 「戦果」撃墜258 不確実25 炎上49 大破95
 「損害」戦死122

 加藤部隊長は昭和17年(1942年)5月22日ビルマ・アキャブの戦闘で敵機ブレンハイムを撃墜しましたが、自身の機も被弾し、翼が炎にまみれ、50〜60メートルの高度で海中へ反転し、自爆しました。これは部下に普段から話していた「確実に死ねる」方法でした。(捕虜にならないため) 加藤部隊長の戦死には南方軍司令官・寺内寿一より感状が授与されました。

「ソノ武功一ニ中佐ノ高邁ナル人格ト卓越セル指揮統帥及ビ優秀ナル操縦技能ニ負フモノニシテ、其ノ存在ハ実ニ陸軍航空部隊ノ至宝タリ」

 そして昭和19年(1944年)には加藤隼戦闘隊として映画化され、同戦隊の隊歌と相まって当時の全国民の知る伝説的英雄となりました。

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 加藤隼戦闘隊の生き残り安田准尉は戦後、自分の子供に戦争の話は多くは語らなかったそうです。戦争という物の熾烈さ、無残さ、空しさを含めて、よく真相を語りえなかったから、と述べています。戦後の軍を悪としたり、軍人や戦争を語ると戦争美化だとして嫌悪する風潮もあったせいでしょうか。
 現在でも軍人の功績などはほとんど語られませんね。軍人がいなかったら今頃、日本という国はなかったはずです。
 軍人を語ると戦争美化につながり危険でしょうか。私ははその理屈がよくわかりません。軍人こそ戦争の残酷さをよく知っており、そして戦争をしたくないのは軍人ではないかと思っています。元自衛隊の田母神前空幕僚長は「軍人というのは意外に戦争に慎重なんですよ。だって命がかかっているんだから。本音を言えば、軍人は戦争したくないんです」と述べています。

 加藤隼戦闘隊・安田准尉はこう述べています。

「祖国の栄光を信じ、遠くアラカンの山脈を越えてヒマラヤの峻峰を脚下に臨み、またインド洋の水平線のかなたで、容赦ない鉄器の火箭(かせん)につばさ折れ弾丸つきて散った多くの空中戦士は、思えばすべて二十代の若鷲であった。その若鷲たちが、まなじりを決して敵機に立ち向かう勇気は、また戦争の無残さ、空しさとは別物である」

 戦後日本は偏向平和観によって光を消してきたような気がします。



参考文献
 「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人著
 「歴史通」WiLL2010.3月『加藤隼戦闘隊を知っていますか』佐藤暢彦
 「歴史通」WiLL7月『軍人は戦争をしたくない』中條高徳田母神俊雄

参考サイト
 WikiPedia「加藤隼戦闘隊」「加藤健夫」

添付画像
 1942年初旬(戦死の数ヶ月前)の加藤建夫戦隊長(PD)

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