失地回復へ 〜 微笑みの国の逆襲


 1914年から翌年にかけてタイのワチラーウット王(ラーマ6世)はナショナリズムを鼓舞する政策にでます。タイでは華僑が経済活動を牛耳っており、得られた利益は支那に還元されてしまい、タイにはメリットがないとして華僑が批判の対象となります。
 そして第一次世界大戦が勃発。ワチラーウット王はペンネームを使って新聞に論説を展開していたユニークな王で、アメリカの参戦を見た王は得意の論説を展開し、ドイツを批難し、世論を誘導。そして1917年7月にドイツ、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告。飛行部隊と自動車部隊を欧州戦線へ派遣します。これで戦勝国となったタイは不平等条約の解消を一気に進め、1919年のベルサイユ講和会議に訴え、1927年までに改正作業を終えます。

 タイは1932年にクーデターが勃発し、立憲君主制に移行します。力をつけてきたタイはこれまでの白人らの横暴に反抗していくようになります。国際連盟満州国について対日批難投票を棄権して世界を驚かせました。その後、満州国を真っ先に承認します。国際連盟ではベルサイユで日本の人種差別禁止提案が潰されたのを目の当たりにしてきており、アヘンをベトナムやマレーで売りさばきながら「植民地の福利厚生をはかるのは神聖なる使命」といった連盟規約の挿入を白人の欺瞞だと見抜いていたのです。

 1937年ピブーン内閣発足。ナショナリズムを鼓舞し、華僑の経済活動を公企業枠にはめ、活動を制限し、従わない華僑を追い出します。ピブーン首相は日本がABCD包囲網で軍事物資の不足に悩んでいる時に、タイで生産される生ゴムと綿の全量を日本に供給してくれました。

 タイは以前割譲したフランス領インドシナ(以後仏印)領内のメコン川西岸までの領土(フランス保護領ラオス王国の主権やカンボジア王国バッタンバン・シエムリアプ両州)の返還を求めていましたが、1940年(昭和15年)日本が仏印進駐を行い、フランス軍がドンダンで叩きのめされるのを見たタイは積年のフランスへの恨みをはらさんとするかの如く、1940年11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し戦端が開かれます。1941年1月6日、タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊で進攻を開始し、カンボジアへ進軍し、フランスを圧倒します。しかし、腐ってもフランス。海戦ではタイ海軍が一方的に敗北し、陸戦も次第に劣勢になり、1941年5月8日、両国は日本の仲介により東京条約を調印し、終戦となります。一応、タイではこれは「戦勝」となっており、戦勝記念塔をバンコクに建立しました。というのはチャンパサク地方及びカンボジアバッタンバン・シエムリアプ両州を回復したからです。しかし、第二次世界大戦に日本が敗北するとこの領土は再び奪われてしまいました。



参考文献
 「物語 タイの歴史」柿崎一郎著
 「アジアに生きる大東亜戦争ASEANセンター編
 「歴史通」WiLL2009.7月号『神のごとく振舞った英国人が青ざめた』高山正之
 「タイのこころ」ククリット・プラモートチット・プーミサック著 田中忠治編訳・解説
参考サイト
 WikiPedia「タイ・フランス領インドシナ紛争」

添付画像
 1932年頃のシャムの兵士(PD)

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