タイと大東亜戦争

 1941年(昭和16年)12月7日、日本軍山下兵団は南タイへ上陸してマレイ作戦を敢行すべく航行中でした。坪上貞二駐大使はタイのピブン首相に緊急面会を申し入れます。しかし、首相は国境の空港施設の視察に出向しており不在でした。やむなく日本側は首相官邸で一睡もせず、ピブン首相を待ちます。日本側の要求は以下のいずれかの一つにOKを得ることでした。

1.単に日本軍のタイ領通過を許容する。
2.日タイ共同防衛協定を締結し、日本はタイを守る。
3.日タイ同盟条約を締結し、米・英両国と戦う。この場合、日本はタイがかつて英・仏に奪われた失地をタイに返還することを保証する。

 ビブン首相が帰ってきたのは8日の午前6時40分。ただちに閣僚会議が開かれ、ピブン首相は「時間がない、ただ日本の要求を許容するか、日本と戦うかのいずれかだ」と述べ、ディレック外相が「これまで我が国は厳正中立を宣言してきた。急に態度を変えて日本と同盟することは列強を騙したことになる。ここでは、非力のためいたしかたなく日本の要求を受けたことにして、第一項をとるべきだ」と発言し、他の閣僚も同意します。こうして「日本軍のタイ国への平和進駐に関する協定書」に調印をしました。タイ政府はラジオを通じてこのことを発表しましたが、既に山下兵団は南タイのバタニー、シンゴラ等に上陸しており、タイ軍や警察隊と交戦していましたが。しかし若干の犠牲者を出した程度ですみました。
 このあたりはピブン首相が意図的に雲隠れしたという説があります。この後の米英への宣戦布告時にも摂政の一人プリディーが雲隠れして摂政二人の署名で行い、日本が敗戦したときに宣戦布告は摂政三名の署名が必要なので無効と主張しています。万一のことを考え、「やむを得ず」戦争に巻き込まれ、不完全な宣戦布告したという演出だったという説です。しかし、日独伊三国軍事同盟への加盟を要求したり、失地ではないシャン州への外征を自発的に行ったりしていますから、偶然の出来事を後に利用したとも考えられます。

 タイは大タイ主義をかかげ領土拡大を実現するために日本側の物資調達の要求にも応じ、軍事輸送のため日本軍の鉄道使用を許可しました。日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道、クラ地峡線を作り、1943年(昭和18年)東條英機首相はバンコクを訪れ、ピブン首相と会談し、シャン地方の二州とマレイ領に編入されたケランタン州等の三州の回復を承認しました。

 ただ何事も万事うまくいくというものではなく、バーンポーン事件という捕虜にタバコを恵んだ僧侶を日本兵が殴って騒ぎになったり、連合軍の空爆によって被害が出ると次第に反日感情も芽生えてきています。

 昭和18年に「ホトケの中村」という中村明人中将がタイ駐屯軍司令官として赴任します。中村中将はタイの朝野からたいへんな信頼をうけたといいます。戦後の昭和30年にタイの警視総監パオ大将ら政府要人に中村中将らは招待されましたが、中村中将は「まるで竜宮上にいった浦島太郎のような思いだ」と語ったほど大歓迎されました。
 タイでは「メナムの残照」(原題:Khu Kham)という日本軍人「コボリ」とタイ人女性の物語がヒットしましたが、コボリのモデルとなったのが中村明人なのだそうです。



参考文献
 「物語 タイの歴史」柿崎一郎著
 「アジアに生きる大東亜戦争ASEANセンター編
参考サイト
 WikiPedia「中村明人」
添付画像
 爆破される泰緬鉄道(PD)


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