「日本人は生存に値しない」ハル・ノート

 1941年11月26日、8ヶ月にわたる日米交渉の末、突然提示されたのはハル・ノートでした。このノートを書いたのはハリー・D・ホワイトという財務長官補佐でソ連NKVD(後のKGB)の展開した「雪工作」の対象者です。1948年7月末に下院の非米活動委員会で「共産党エリート」として告発を受けています。
 ハル・ノートにはそのまま読むと耳障りの良い文面がちらほらします。「多国籍間の不可侵条約」などそうでしょう。それまでの日米交渉にはなかった課題を新たに出して混乱を計っています。
 日本軍の支那仏印からの撤退を迫っていますが、それをどこの範囲でいつおこうかを譲歩して交渉してきたのです。満州国についてはそれまでの交渉で米国は触れていなかったもの重慶政府以外支持するなと満州国の放棄を要求してきています。大陸の治外法権、租借の放棄の要求も含めて数百万の日本人の財産を否定するような要求です。「日本人は生存に値せず」と言っているようなものです。
 東郷外相は次のように語りました。

「目もくらむばかりの失望に撃たれた」「日本がかくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートのごとき最後通牒を送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した」

 後日米国でも非難があり、セオボルト海軍少将は以下のように述べています。
「まさしくハル・ノートは日本を鉄棒で殴りつけた挑発だった」

 グルー駐日大使も「このとき、開戦のボタンは押されたのである」と述べています。

 東京裁判で日本無罪を主張したパール判事は以下のように述べています。
真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器を取って立ち上がったであろう」

 日本はハル・ノートをのんで戦争を回避すべきだった、無謀な戦争に突入したという考え方の人もいると思いますが、ハル・ノートをのんで、海外の数百万の日本人が財産をすて本土に帰ったらどうなるでしょう。そして第二、第三のハルノートが突きつけられた可能性は高いのです。開戦しなくても大変なことになっていたでしょう。
 戦後、「真相箱」ではルーズベルト大統領が天皇陛下宛に親書を送ったのに東郷外相の不手際によって間に合わず、そのため戦争をとめることができなかったなどと宣伝しています。以前「トラ・トラ・トラ」とう映画でもそんなシーンがあったのを覚えています。大統領の親書の内容はそれまでの日米交渉の話をつづっているだけで何も目新しいものはなかったのです。昭和天皇は「親書は事務的なものだった」と述べています。
 


参考文献
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭朋和著
 「パール判事の日本無罪論」田中正明
 「真相箱の呪縛を解く」櫻井よしこ
 文春文庫「昭和天皇独白録」


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