大東亜戦争

熱闘!おじさん部隊 〜 ガダルカナル戦

おじさんはがんばった! 昭和17年(1942年)8月から始まったガダルカナル戦は日本軍の補給が思うようにいかず、大量の餓死者と病死者を出し、撤退することになりました。12月30日の御前で決裁が行われました。 ガダルカナルを撤退するにあたって…

餓島

飢餓の島となったガダルカナル。まだ先人の遺骨が残っています。 昭和17年(1942年)8月から始まったガダルカナル戦は一木支隊の先遣隊が全滅した後、川口少将率いる川口支隊が島に上陸しました。 9月12日、川口支隊は夜間総攻撃を開始。敵味方の…

旭川へ凱旋した二十八連隊 〜 ガダルカナル戦

魂は凱旋した。 昭和17年8月7日より始まったガダルカナル島を巡る日米決戦で、日本軍は第一次ソロモン海戦で敵輸送船団を撃ち漏らすという大失態に続き、敵兵力を過少に見積もり、兵力を逐次投入するという失敗をしてしまいました。 ガダルカナル島に最…

ガダルカナル決戦

飢餓の島となったガダルカナル島。 「天が落ちてもガダルカナル島は大丈夫」 大東亜戦争・日米戦で日本海軍はこう豪語していました。昭和17年(1942年)8月9日、大本営海軍部の発表があります。「8月7日、早朝、敵は数十隻の輸送船団をもってガダ…

戦犯となった今村均

聖将・今村均 戦後のBC級戦犯とされた日本兵への虐待は想像を絶するものがあります。ニューギニア本島の西にある小島のモロタイでは豪兵による日本兵虐待が行われていました。日本兵囚人が作業から帰ってくると皮の鞭、棍棒、板切れなどを振り上げて集団リ…

真珠湾攻撃より聖戦始まる

大東亜戦争は聖戦であった。 ククリット・プラモード(タイ元首相) 「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に…

日米開戦は海軍の意思

海軍がウンと言わなければ日米開戦はできない。 日米開戦は現役陸軍大将である東條英機の内閣のときに決定しています。しかし、日米戦は海軍が主体となりますから、海軍がウンと言わないと出来ません。ですから海軍の意思でした。 日本はなんとか米国との戦…

真珠湾攻撃以前から日米は戦争状態だった

戦争を仕掛けたのは米国。 満州事変の前から米国は満州の日本と対立する勢力に援助をしていました。昭和2年(1927年) 張作霖が米国資本を背景に満鉄併行線を完成(協定を無視した)昭和6年(1931年) 張学良軍に米国から年間戦車100台、飛行機…

ラバウル大要塞

ラバウルは生き残った。 ラバウルといえば大東亜戦争で多くの撃墜王をエースパイロットが浮かぶでしょう。そして難攻不落の大要塞でした。このラバウル大要塞は終戦まで健在でした。米軍はマリアナ、フィリピンと進みましたから、補給路は分断されていますが…

ハル・ノート

ハル・ノート資料 United States Note to Japan November 26, 1941 (Dept. of State Bulletin, Vol. V, No. 129, Dec. 13, 1941)The text of the document handed by the Secretary of State to the Japanese Ambassador on November 26, 1941, which consis…

ハル・ノートを突きつけられたとき日本はどうすればよかったか

戦わずして勝つ方法はあったか。 昭和16年11月26日、「ハル・ノート」と呼ばれる米国の最後通牒が突きつけられました。8ヶ月にわたって日米交渉を行ってきて、米国は譲歩もせず、さらに厳しい要求を突きつけてきたのです。東郷外相「目もくらむばかり…

パーフェクト・ゲーム 〜 キスカ島

まさにパーフェクト。キスカ奇跡の撤退。 昭和18年(1943年)5月30日、アリューシャン列島のアッツ島の日本軍守備隊は玉砕しました。アッツ島より東(米国側)にあるキスカ島の5,300名の日本軍守備隊は孤立することになります。 キスカ島では…

アッツ玉砕

日本軍初の玉砕、アッツ島。 昭和18年(1943年)5月12日、米軍はアッツ島に上陸します。山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊がこれを迎え撃ちました。 アッツ島は米領で前年のミッドウエー攻略作戦と並行して、日本軍が占領しました。こ…

大東亜戦争終結時、国民はホっとしたのか

戦後刷り込まれた「ホッとした」 私は子どもの頃、昭和20年8月15日に大東亜戦争が終結(停戦)したとき、国民はみなホっとした、と教えられました。「昭和天皇論」小林よしのり氏でも小林氏は親からそう聞かされていたことが書かれています。どうやら「…

日本のいちばん長い日

負けたことのない日本にとってこの日は長かった。 子供の頃、「日本のいちばん長い日」という映画をテレビで見た記憶があります。白黒でした。 昭和20年8月14日、ついに聖断が下り、終戦が決定します。阿南惟幾陸相は青年将校を集め御前会議の報告を行…

二度目の聖断

聖断は下った。 昭和20年(1945年)8月10日、日本国政府は国体護持を条件としたポツダム宣言受け入れを中立国を通じて連合国に打診しました。 「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」 これに対して12日…

聖断下る

一度目の聖断 昭和20年8月9日深夜、御前会議が開かれます。御前会議は本来儀礼的なもので、天皇陛下は一切発言しません。結論も決まっており、シャンシャンという会議です。ところがこの日の御前会議は事前打ち合わせが一切ない異例なものでした。実は鈴…

日本を降伏させるな

原子爆弾を落としたかった米国は日本を降伏させたくなかった。一方日本国内では鈴木首相の盟友、阿南惟幾が国家のために大芝居をうつ。 昭和20年(1945年)7月16日、米トルーマン大統領はニューメキシコにおいてプルトニウム型の原子爆弾実験に成功…

講和を模索する日本

そして日本は孤立しました。 昭和20年(1945年)5月7日、ドイツが降伏します。日本は完全孤立することになります。 5月中旬、超極秘会議が開かれます。首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長の6人のみです。以下が決定されます。 1)ソ連…

鈴木貫太郎内閣の誕生

鈴木、阿南の腹芸始まる。 東條内閣の跡を継いだ小磯内閣はシナ戦線の兵力を引き抜いて太平洋戦線にあて、戦局悪化を食い止めようとして対中和平工作を再開しました。蒋介石政権とつながっているというシナ人を使って交渉しようとしましたが、蒋介石の親書を…

日本を戦争に引きずり込め 〜 盧溝橋事件

昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発します。北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と支那国民革命軍第二十九軍との衝突事件です。これは支那共産党の策略と見て間違いなく、前年の西安事件によって蒋介石は命を助けてもらうかわりに抗日に同意し、…

硫黄島決戦

昭和20年(1945年)2月19日、米軍が硫黄島に上陸します。よく、「沖縄は日本唯一の地上戦」といわれますが、これは誤りです。テレビでもまだ間違ったまま報道されます。もう少し言うと南サハリンや千島列島でも戦闘があります。日本領という定義だ…

ブラック・デス・アイランド

昭和20年(1945年)2月19日 - 3月26日、硫黄島で日米死闘が繰り広げられ、日本軍は玉砕しました。日本側戦死 17,845〜18,375 (軍属82を含む)、米側戦死 6,821 戦傷 21,865。米大統領のルーズベルトは米側の損害を聞いて、戦慄のあまり息をのん…

近衛上奏

昭和20年(1945年)1月9日、米軍はルソンに上陸。2月11日、連合国によるヤルタ会談が行われ、ヤルタ密約が取り決められソ連の参戦が決定します。(日ソ中立条約の一方的破棄) 日本は知りません。このヤルタ密約の発表は1年後になります。 2月…

捷一号作戦

捷一号作戦は昭和19年(1944年)10月23日から同25日にかけて米軍のレイテ上陸を阻止する日本軍の作戦名です。おとり作戦とよく言われますが、日本海軍の機動部隊(小沢部隊)が米機動部隊を牽制し、戦艦を中心とした水上砲撃部隊(栗田艦隊、志摩艦隊、西…

小磯内閣誕生

昭和19年(1944年)7月7日、サイパン玉砕。東條内閣は崩壊し、小磯内閣が誕生しました。しかし、戦局が好転するわけではなく、9月15日に米軍はペリリュー島へ上陸。小磯内閣は何ごとも動きが遅く、「木炭自動車」と揶揄されます。昭和天皇はこう…

東條英機暗殺計画

昭和19年5月、大東亜戦争の戦局が悪化してくると東條内閣にかげりが見えてきます。岸信介国務相(軍需次官)は東條英機に対し「軍需産業に責任を持っている次官の立場から言うと、サイパンが取られればどうにもなりません。B29が連日空襲をかけてくれ…

学徒出陣

大東亜戦争最中の昭和18年(1943年)10月2日、当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布しました。それまでは兵役法などの規定により大学・高等学校・専門学校(いずれも旧制)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されており、…

ミッドウェー敗北を知らなかった東條英機

大東亜戦争時、東條内閣の農相だった井野碩哉(いのひろや)氏は戦後、大森の収容所で東條英機にこういわれたと述べています。 「井野君、自分はミッドウェーの敗北を知らなかったんだよ」井野氏は「そんなこと信じられませんよ」と重ねて確かめたところ、「…

大日本帝国の輝かしい歴史

長い三列縦隊の軍艦が三角旗をはためかせ、天皇自身が見守る中、観閲台の前を威風堂々と進んでいったことだろう。中央隊列を行くのは、あわせるとごく短時間で何キロも離れた標的に向けて数千トンの鋼鉄製強力砲弾を舷側斉射する能力を持つ、戦艦十隻と重巡…