加藤隼戦闘隊 VS B24


 大東亜戦争の日本軍のビルマ進攻は援蒋ルートのビルマルートの遮断が目的の一つにありました。これに成功すると、英米はヒマラヤ越えの空輸ルートしかなくなってしまいます。インパール作戦のもととなった二十一号作戦はこのヒマラヤルートの遮断に主眼をおいていました。
 昭和17年10月25日、加藤隼戦闘隊ら戦爆連合編隊百数十機がメイクテイラを離陸、チンスキアの敵飛行場を目指します。高度5500Mでアラカン山脈を越えるとヒマラヤ山脈を臨みながら爆撃と銃撃を行います。翌26日、28日も攻撃成功します。
 
 この頃から南方戦線が怪しくなり、各拠点から航空兵力が抜き取られて、加藤部隊からも8名が転戦しています。そこへ持ってきてB−24大型機がやってきて、加藤隼戦闘隊は困難な戦闘を強いられることになります。隼は13ミリ機銃(ゼロ戦は20ミリ)ですので、命中してもB24はなかなか落ちず、エンジンが2発停止しても飛び続け、下方に銃座があるため死角がなく、かなり手を焼いています。

 加藤隼戦闘隊・安田曹長はB17は打ち落とした経験があり、ラングーンに夜間空襲にきたB24を迎え撃ちますが、何度か攻撃するうち、B24の側方銃座にやられ撃墜されます。しかし安田曹長はパラシュートで脱出。2度目の墜落も助かっています。

 昭和18年に入ると周囲の敵機は600機以上と推計され、航空戦はますます厳しくなりが、2月にも第二次チンスキア攻撃を行います。さらに英軍はレーダを配備しはじめたため、攻撃は厳しさをまし、ラングーンやトングーはB24の攻撃にさらされるようになりました。数え切れないぐらいの戦闘を行い、何機撃墜したかなど話題にならなくなったといいます。

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 加藤隼戦闘隊はこの後、チッタゴンインパール、コックスバザーへの侵攻、アキャブ方面の地上協力を行い、P51Aムスタングとも戦い、世界で初めてB29と交戦します。昭和20年2月11日にはラムレー島上陸作戦掩護。終戦は南部仏印のクラコールで迎え、残った隊員の中には強い誘いにより中華民国軍やベトミンに身を投じた者もいるといいます。

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 加藤戦隊長の死後、実質隊を取り仕切っていた黒江保彦少佐は戦後、民間の富士航空を経て航空自衛隊に入隊しています。同隊の安田准尉が身体を壊し、榛名山中で静養していたとき、セスナ機で空から見舞ったそうです。



参考文献
 「栄光 加藤隼戦闘隊」安田義人著
 「インパール作戦」土門周平著

参考サイト
 WikiPedia「加藤隼戦闘隊」「黒江保彦」

添付画像
 一式戦闘機二型(PD)


一式戦闘機 隼 Nakajima Ki-43 Hayabusa http://www.youtube.com/watch?v=-4N3YobtkB8
http://http://www.youtube.com/watch?v=-4N3YobtkB8

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