植民地に教育は不要だった

 ビルマが英国に植民地支配されている頃、英国人は学校を作りましたが、1920年の時点で学校数は90校で高等教育の場はラングーン大学(現ヤンゴン大学)とミッション系の大学しかなく、就学率はわずか4.9%でした。 仏印インドシナ(フランス領のベトナムラオスカンボジア)では1922年で就学率1.7%、1942年でも3%です。白人は有色人種に教育を施す気はありませんでした。賢くなって反抗されては困りますから。教育を受けたものは名誉白人という称号を与え、そうでないものは白人の良き下僕となるように仕向けられました。

 大学ではきっちりとした教育が行われていたかというと戦後、ビルマで抑留生活をしていた会田雄次氏の記録に面白い話が載っていました。ラングーン大学の英文科を卒業したビルマ人に会ったときのこと。そのビルマ人はシェイクスピアに関する卒業論文を書いたといい、「カンタベリー物語」(イギリスの詩人、ジェフリー・チョーサー)を読んだという。会田氏がその本を見せてくれというとビルマ人は大得意で貸してくれました。ところがその本を見てみると絵入りのカンタベリー物語、シェイクスピア劇物語であり、日本で言えば中学校2,3年生程度が読むような簡易化した本でした。大学といっても英国人はこの程度しかビルマ人を見ていなかったわけです。

 もっとも英国人も大したことはなく、この当時、算数が出来るものは少なかったようで、会田氏の著書によると英国人は掛け算ができない。経理担当の英兵士は計算はできますが、そうでない兵士がトラックの荷物の受け取りなどに来ると48個入りの木箱が20だと48を二十回足し算していたため計算に20分ぐらいかかっていたといいます。収容所内で新聞の発行許可をもらいに英将校のところへいくと「日本人の中で文字が読めるのは何人いるか?」と聞かれて「全員読める」といったところ、イギリスでもとてもそうではなかったため、信じなかったと述べています。
 英国はブルジョワジープロレタリアートがはっきりしており、軍隊の中でも士官と下士官ははっきりしており、日本軍の一兵卒が大学の講師をやっていたと言うと信じてくれなかったと会田氏は述べています。

 ちなみに日韓合邦時代の朝鮮半島では1916年から3村1校の教育普及政策が推進され、1925年の就学率は15%。高等教育では98校。大正13年(1924年)に京城帝国大学が設立されています。大阪帝大や名古屋帝大よりも早く設立されています。1929年からは1村1校が進められます。昭和11年(1936年)には公立普通学校は2,500校に達し、1943年の就学率は61%。台湾では1943年には義務教育を実施しています。これらの数字を見ても朝鮮、台湾を「植民地」と呼ぶのは誤りです。



参考文献
 「日本はどれほどいい国か」日下公人高山正之
 「アーロン収容所」会田雄次
 「日本の植民地の真実」黄文雄

添付画像
 1945年ごろのラングーン大学(講堂だと思われる Glenn S. Hensley氏)

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