誰も見ていない、誰も知らない南京大虐殺

大虐殺を見た人も、認識していた人もいない。


 昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。大東亜戦争後、ここで30万に及ぶ大虐殺があったと言われてきました。

 南京は城壁に囲まれた城内と城外があり、城外は支那国民政府軍による焦土作戦により目茶目茶になっていました。城内と城外の下関(シャーカン)は40平方キロほどの広さで東京の世田谷区58平方キロより狭いくらいです。日本軍突入と同時に多くの報道陣が取材し、朝日新聞は80名、東京日々新聞(毎日新聞)は70名の取材班を投入しています。南京を取材した記者たちは「南京大虐殺」など見たことも聞いたこともないのです。

 朝日新聞・山本治上海支局員
「(虐殺は)全然みたことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」

 東京日々新聞・佐藤振寿カメラマン
「(虐殺は)見ていません。虐殺があったと言われていますが、16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出ていました。また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていましたから、とても虐殺行為があったとは信じられません」

 城外でも朝日の記者が「幕山では、最後の一人まで、チェッコ(機関銃)を握って皇軍に抵抗していた少年があったよ」と取材しています。

 ニューヨーク・タイムズのダーディン記者、シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者が「大規模な虐殺」「非戦闘員の殺害」と報じていますが、パラマウントやロイターはそのようなことは書いていませんし、南京の国際委員会が報告した殺人は49件で確認されたものはゼロです。ダーディンらの記事は金陵大学のベイツ教授(裏の顔は国民党政府顧問)のプロパガンダレポートをもとにしたようです。

 支那には宣伝部というのがあり、日本軍の非行があったとして、プロパガンダをまき散らしており、代表的なものにディンパーリの「戦争とは何か」という本があります。このほか金陵大学のスマイス博士も自己の調査では非戦闘員被害が少なすぎたので、12,000という数字をでっちあげ、郊外の被害者調査を巧妙な手口で水増しし、3万という数字を出しています。

 当時、日本政府も内閣直属機関「興亜院」がこうしたプロパガンダは把握しており、吉田三郎氏が「支那における第三国人文化施設」という報告を行い、スマイス調査を「科学的な研究という面を被った排日宣伝文書」「支那軍が逃げるときに放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある」と見破っており、ティンパーリの「戦争とは何か」についても「排日宣伝文書」と指摘しています。
 南京の国際委員会が日本外務省宛てに殺人49件他、傷害、強姦などの抗議が来ており、これに対し、外務省東亜局長、石射猪太郎は「上海からの来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と日記に書いていますが、「虐殺」とは言っておらず、また、国際委員会の報告も検証されたものはありません。現場に確認に行くと何もないことばかりでした。つまり日本政府は「南京虐殺」など認識していないわけです。

 支那国民党は南京陥落から2か月後の昭和13年(1938年)2月に国際連盟で「2万人虐殺」を演説しましたが、その2か月後にアメリの大使館付武官であったキャーボット・コービルが調査のため南京に入りました。しかし、「虐殺」「殺人」といったことは報告されていません。
 支那国民党も国際連盟で演説したにも関わらず、南京陥落から11カ月間、漢口で300回の記者会見を開きましたが、「大虐殺」については一言も言っていません。外交ルートを通じて日本政府に抗議もしていません。

 30万人が殺害されたのに当時、誰も見ていないし、誰も知らない。日本政府も支那政府も認識していないし、世界も認識していないなんてことはありえないでしょう。南京虐殺・・・それは虚構です。



参考文献
 文春新書「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
 草思社南京事件 国民党極秘文書から読み解く」東中野修道(著)

添付画像
 南京自治委員会発会式における陶錫三会長のかけ声による自治委員会万歳三唱(1938年1月1日 PD)

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南京大虐殺は捏造だった/自虐史観払拭
http://www.youtube.com/watch?v=hbif0eKy38g