石原莞爾の国防思想

帝国陸軍の異端児」石原莞爾。生まれてくるのが少し遅かったか。


「私が戦争指導をやったら、補給線を確保するため、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に箒し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境から、シンガポールスマトラの中心の防衛線を構築し、中部は比島(フィリピン)線に退却。他方本土周辺、およびサイパンテニアン、グアムの南洋諸島をいっさい難攻不落の要塞化し、何年でも頑張りうる態勢をとるとともに、外交的には支那事変解決に努力を傾注する。
 とくにサイパンの防御には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防衛に万全を期していたら、米軍の侵入を防ぐことができた。米軍はサイパンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。それゆえサイパンさえ守り続けていたらレイテを守り、当然五分五分の持久戦で断じて負けていない」

 これは昭和22年(1947年)5月に石原莞爾極東軍事裁判東京裁判)酒井出張法廷で証人として出廷する前夜にAP記者とUP記者のインタビューに答えたものです。

 石原莞爾は明治22年(1889年)1月18日 生まれ。最終階級は陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。満州事変の立案者であり、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られています。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者でした。石原は欧州のフリードリヒ大王、ナポレオンらを分析し、戦争の様相は時代によって決戦戦争と持久戦争の形態を相互に繰り返し、最終戦争に突入すると主張しました。この最終戦争は日本とアメリカの対決なると予言しています。

 昭和10年(1935年)8月、石原は参謀本部作戦課長となります。石原は満州の国防を強化し、ソ連に備える構想を打ちたてました。さらに満鉄経済調査会参事の宮崎正義を起用して、「宮崎機関」をつくり、「第一次日満産業5ヵ年計画」を策定しました。これには北満から南満にいたるまでの大産業開発であり、日満の自給自足体制の確立を目指しています。そうすればアメリカが経済封鎖してきても戦争に至らないどころか、経済封鎖自体の意欲、日本と戦争する意欲がなくなると考えていました。
 アメリカは昭和5年ごろから国務長官スティムソンがフーバー大統領に対日本経済封鎖を強く働きかけていました。フーバー大統領は「それは戦争行為である」と反対しましたが、スティムソンは「経済封鎖しておいて外交を片付ける。日本を恫喝すれば折れてくる」という考え方でした。石原はアメリカの対日戦略を読み取っており、満州におけるソ連に対する防衛とアメリカに対する持久戦争へ備えることにより、日本に手を出してこないようにする状況を作り上げようとしていたのです。


「戦争史大観」石原莞爾
国防とは国策の防衛なり。即ち、わが現在の国防は持久戦争を予期して次の力を要す。
 1) ソ連の陸上武力と米国の海上武力に対し、東亜を守り得る武力
 2) 目下の共同体たる日満両国を範囲とし自給自足をなし得る経済力


 しかし、石原の構想は支那事変が勃発し、泥沼に入ることにより国力を事変に向けることになってしまい、頓挫してしまいます。石原は支那事変拡大に強硬に反対し、遂に満州へ左遷されました。それでも石原は満州の防衛に尽力しました。その後、舞鶴要塞司令官、第16師団長を経て昭和16年に現役を引退します。
 石原は軍略家であり、農政学者でもあり、日米決戦を控えて食糧不足を予期し、農村改革に取り組み「農村改革要領」をまとめました。国防は資源、鉱工業の自給自足だけでなく、食糧の自給自足も柱になっています。

 昭和16年12月8日、日米開戦。日本は破竹の快進撃を続けましたが、それは決戦戦争において勝利しただけで、持久戦争においては有効な構想がありませんでした。17年6月、ミッドウエー海戦に惨敗。戦闘はソロモン方面に移ります。事態打開に向けて先が見えない東條英機首相は甘粕正彦の取次ぎで石原と会談しました。石原と東條は犬猿の仲でしたが、甘粕正彦満州事変において活躍してくれた人なので石原は渋々応じたのです。

東條「今後の戦争指導についての考えかたを聞かせてくれ」
石原「戦争はキミでは勝てないことははじめからわかりきっていた。このままで行けば日本を滅ぼしてしまう。一日も早く総理大臣をやめなさい」

 昭和18年3月、朝日新聞の記者が石原を訪ねてきてました。石原はこう述べました。
「東京はやがて焼け野原になるぞ、一木一草もなくなるぞ」

 石原の予言通り、マリアナの防衛は全くなっておらず、昭和19年7月9日、サイパン陥落。これより日本本土はB29による空襲の脅威に晒されます。昭和19年末ごろより日本本土は空襲され、やがて無差別絨毯爆撃に至り、日本は焦土と化しました。そして20年8月、日本敗戦。

 戦後、石原の島嶼防衛構想を聞いた米海軍関係者は首筋をなでながら、石原が日本軍の総大将でなかった幸運を感謝したといいます。



参考文献
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 光人社NF文庫「石原莞爾 国家改造計画」早瀬利之(著)
 中公文庫「戦争史大観」石原莞爾(著)
 光人社刊「日本は勝てる戦争になぜ負けたのか」新野哲也(著)

参考サイト
 WikiPedia石原莞爾

添付画像
 石原莞爾 昭和9年(PD)

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戦争史大観 緒論

一、戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。即ち、一般文化の進歩を研究して、戦争発達の状態を推断し得べきとともに、戦争進化の大勢を知るときは、人類文化発達の方向を判定するために有力な根拠を得べし。

二、戦争の絶滅は人類共通の理想なり。しかれども道義的立場のみよりこれを実現するの至難たることは、数千年の歴史の証明するところなり。
 戦争術の徹底せる進歩は絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、その時期は既に切迫しつつあるを思わしむ。

三、戦争の指導、会戦の指揮等は、その有する二傾向の間を交互に動きつつあるに対し、戦闘法及び軍の編成等は整然たる進歩をなす。
 即ち、戦闘法等が最後の発達を遂げ、戦争指導等が戦争本来の目的に最もよく合する傾向に徹底するときは、人類争闘力の最大限を発揮するときにして、やがてこれ絶対平和の第一歩たるべし。