白瀬中尉の千島列島探検

南極探検で有名な白瀬中尉は千島探検にも行っていた。


 白瀬中尉は日本人初の南極探検家と知られていますが、その前に千島列島を探検しています。それは明治23年(1890年)の秋、仙台第二師団の機動演習に参加していたところ、児玉源太郎少将(のち大将、日露戦争のときの満州軍総参謀長)、に出会ったことがきっかけでした。

 演習のあったある晩、白瀬中尉(当時、特務曹長)が露営のテントの中で「行軍日記」を書いていると「誰かおらんか」と視察にきていた児玉源太郎少将が入ってきました。白瀬曹長は挙手の礼をし、「はい、全員外出しました」と答え、二言三言言葉を交わした後、児玉少将は「おぬしのいちばん好きなものは何かな?」と訊ねました。

白瀬曹長「閣下、わたしは北極探検に行きとうございます。北極へ行くのがいちばんの楽しみでございます」

 白瀬中尉は当初は北極探検を目指していました。この頃、世界では北極航路の発見、グリーンランド探検で探検熱は高まっていたものの、開国して二十余年しかたっていない日本で、目の前の男が「北極探検」などと言い出したのですから、児玉源太郎も面食らったでしょう。「それは駄目だ。おぬしのは書生論にすぎんな」と返しました。そして次のように述べます。

「考えてもみたまえ。北極に行くにはまず千島なり、樺太なりに行って、十分に身体を鍛錬し、極寒の地の経験を積んでからのことで、むやみに北極に行きたいなんぞというのは、書生論かそうでなければ机上の空論というものじゃよ」

 児玉源太郎はさらに世間に信じてもらうことが必要と説き、白瀬は児玉の現実論に「自分はピリピリ感電したような気持ちでじっと大理石のように座っていた」と回想しています。

 明治25年(1892年)、白瀬中尉は秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市金浦)の親族、先輩に「千島探検」の嘆願書を送ります。すると村の人々が白瀬の情熱を賞賛し、船や道具、食糧、船員までも手配してくれたのです。当時は北のロシアの脅威に対して日本国民は敏感であったという背景があります。そのとき、海軍の郡司成忠(ぐんじしげただ)大尉が千島列島へ遠征して開拓事業を行うという計画を発表しました。郡司大尉は文豪・幸田露伴の実兄です。これは国民的熱狂となり、白瀬中尉は日本人同士で競争しても仕方がないということで、郷里の協力者にお詫びし、郡司大尉の千島探検に参加することにしました。

 郡司大尉の千島行き遠征船団は明治26年(1893年)3月に千島へ向けて出航しましたが、5月にボート1隻が遭難し、乗組員10人が全員死亡、帆船鼎浦丸が暴風雨によって遭難し、これも乗組員9人が全員死亡するという悲劇に見舞われました。その上、郡司大尉が負傷し、八戸病院に入院する事態となりました。結局、ボート4隻が軍艦磐城に曳航され、函館に入り、ここで白瀬中尉が合流します。その後、函館の名士の支援を得て、6月17日択捉島へ到着。7月20日、硫黄採掘のため捨子古丹島(しゃすこたんとう)に向かうという泰洋丸に便乗させてもらい、先遣隊9人を捨子古丹島に残留させ、その後、幸運にも軍艦磐城が占守(しゅむしゅ)島へ行くところに出会い、残りの9名は8月31日に占守島に到着しました。

 占守島の冬は厳しく、1月は強風が吹き荒れ、正午でも気温は零下10度以上にはなりませんでした。2月は吹雪が急増し、風速30メートルに達する日もありました。島内探検に出ると突然天候が変り烈風の中、一夜を過ごすこともありました。しかし9名は無事越冬することができました。ですが、捨子古丹島の9名は全滅しました。5名が遭難し、4名が水腫病にかかったのです。

 明治27年(1894年)6月27日、日清戦争風雲急を告げる中、軍艦磐城が占守島に到着します。ここで、交代の越冬隊員5名が島に入り、白瀬中尉はもう1年残留することになります。諸理由ありますが、このことは後に、白瀬中尉と郡司大尉の間に禍根を残すことになりました。島で行動をともにしていくうち、白瀬中尉は交代の5名の軟弱な若者が気に食わなく、途中でひとり穴倉生活をするようなこともありました。「烏合無頼の乱臣賊子」とまで糾弾しています。

 厳しい占守島の生活が続き、翌明治28年(1895年)3月4日、運動と称して、膝まで没する雪の中を行進して帰ってきた隊員の一人、杜川延三が翌日になると腰部と大腿部に痛みを訴え、6日には病床に臥してしまいました。遂に水腫病にやられたのです。全身が腫れあがり、食欲がなくなり、衰弱していくのです。

白瀬中尉回想「杜川氏は自分の隣に胡坐(あぐら)をかいてじっとしていた。ふと見ると眼は気が抜けたようにぼんやりしていて、顔は死人のように蒼い。酔眼おぼろに一点を凝視しながら、『ああ苦しい』と溜めて置いた息を靄(もや)のように濃く吐きながら、自分の方を微かに見やった」

 そして杜川延三は「神戸の楠公神社の羽二重餅をたった一つでよいから食べたい」といい、白瀬中尉にもたれかかって眠るように死んで行きました。杜川延三が死んだとき、白瀬中尉と他の2名の隊員も既に水腫病にやられていました。やがて2名の隊員は死亡。白瀬中尉は鍛えぬいた体のせいか回復し、死亡した三名の死体を埋葬しました。

 過酷な占守島の環境で生き残った白瀬中尉ほか2名は8月になってようやく北海道庁の命令によって派遣された八雲丸に救出されます。10月19日、白瀬中尉は仙台に到着。白瀬中尉の妻「やす」が迎えに来ていました。白瀬中尉は妻の手を固く握り「長い間ご苦労だった」と留守の労をねぎらいます。やすは無言で手を握り返して落涙しました。



参考文献
 新潮文庫「極 白瀬中尉南極探検記」綱淵謙錠(著)
 成山堂書店南極観測船白瀬矗小島敏男(著)
 岩崎書店まぼろし南極大陸へ」池田まき子(著)
参考サイト
 WikiPedia白瀬矗

添付画像
 千島列島の島々の夏の典型的な風景(PD)

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<宗谷 南極探検関連リンク>


白瀬南極探検隊記念館 http://hyper.city.nikaho.akita.jp/shirase/



白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクト http://www.shirase100.jp/index.html


TBS TBS日曜劇場「南極大陸」 http://www.tbs.co.jp/nankyokutairiku/

船の科学館 南極観測船”宗谷” http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/soya.html
日本財団図書館 船の科学館 資料ガイド3 南極観測船 宗谷 http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00032/mokuji.htm

みらいにつたえるもの http://www.geocities.jp/utp_jp/soya.html