敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条 〜 大川周明

ベストセラーとなった「米英東亜侵略史」。

「弘安四年、蒙古の大軍が多々良浜辺に攻め寄せたとき、日本国民は北条時宗の号令の下、たちどころにこれを撃退しました。いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲(ようちょう こらしめること)を決意し、緒戦において開戦史上振古(しんこ おおむかしのこと)未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条、東より来たれば東條、天意か偶然か、めでたきまわりあわせと存じます」

 これは昭和16年(1941年)12月14日〜19日、思想家の大川周明がラジオ放送で「米英東亜侵略史」を講演したときのくくりの一部です。大川はペリー来航時、アメリカは反植民地であったが、帝国主義への転換し、日本をどんどん圧迫していった流れを国民に説明しました。これは本になりベストセラーになりましたから、当時、日本国民が大東亜戦争をどのように捉えていたかがよくわかります。

 大川周明は中学生のとき、キリスト教に深く傾斜し、さらに社会主義に憧れていきました。その後、「天皇」も目覚め、唯物論から唯心論へ転換していきました。北一輝らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成しました。
 大川の思想はひとことでいうと天皇を戴く社会主義でしょう。資本家や経営者が労働者から搾取し、貧富の差が拡大する資本主義を敵視していました。

 昭和7年(1932年)5月15日、五・一五事件が勃発。海軍青年将校と陸軍士官候補生らが首相官邸に乱入し、「話を聞こう」といった犬養毅を「問答無用」として射殺しました。大川はこのとき、海軍の将校等に拳銃と銃弾を提供したため禁固五年の判決を受けました。

 大川は純正愛国陣営では評判はあまりよくなく、表裏ある見え透いた嘘の多い挙動が嫌われたようです。また英・米・ユダヤの対日工作員に近づき、上海のユダヤ・ハードン財閥と交渉していました。大川は日米開戦には反対で、対米借款、日米経済提携を推し進めようとしました。これはユダヤ米国の陰謀に乗せられただけで失敗し、大川は失敗を東条内閣のせいにしていました。大川は「東条の奴、戦争など始めやがって太い野郎だ。今頃、ユダヤの奴ら恨んでるだろうな」と語ったといいます。しかし、大川は「敵、北より来たれば北条、東より来たれば東條」という二枚舌を使っています。

 戦後、大川周明は戦犯指名を受けました。これはナチス・ドイツ戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判でナチズム理論家アルフレッド・ローゼンベルク博士が絞首刑となったことから、同様の思想家を引っ張りださなければバランスがよくないからだったと考えられます。そこで「米英東亜侵略史」というズバリ的を射たことを言う大川は米英にとって標的になりました。

 ところが大川周明東京裁判は一種の軍事行動であり、法廷は戦場として捉えており、連合国は「米英東亜侵略史」の論理が展開されるのを恐れました。連合国にとって軍人を悪とし、処刑して復讐を果たし、天皇は利用された、国民は騙された、と軍民分離を謀り、日本を弱体化させなければならなかったからです。おそらく大川周明なら君民共治の国体論まで堂々と展開していたでしょうし、日米経済提携やユダヤ財閥のことも暴露したでしょう。
 大川周明は法廷で東條英機の頭をはたくという奇行を行いました。これは「演技だった」というような説がありますが、大川を診察した内村祐之博士は「あれは間違いなく脳梅毒の進行麻痺症状だった」と語っていることから、本当に病気だったのでしょう。連合国は大川は入院させ、病気が完治しても退院させず法廷に戻すことはしませんでした。大川が退院したのは東京裁判が終わってからです。

 大川周明はその後、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組みました。昭和32年(1957年)12月24日、71歳で永眠しました。



参考文献
 小学館文庫「日米開戦の真実」佐藤優(著)
 PHP「なぜ日本は大東亜戦争を戦ったのか」田原総一朗(著)
 成甲書房「ユダヤは日本に何をしたか」渡部悌治(著)
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
添付画像
 真珠湾攻撃(PD)

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