黒人も快哉した真珠湾攻撃

アメリカの黒人は真珠湾攻撃快哉した。


 昭和16年(1941年)12月7日午前10時半(日本時間)、連合艦隊司令長官山本五十六よりハワイ北に展開する日本連合艦隊機動部隊に電報が送られてきました。

「皇国の興廃繋(かか)りて此の征戦に在り、粉骨砕身各員その任を完(まっと)うせよ」

 山本長官の訓示は、直ちに全機動部隊員に達せられ、各艦のマストには日本海海戦以来、36年目のZ旗が掲げられました。

 12月8日午前0時30分(日本時間)、連合艦隊機動部隊はオアフ島の来た二百五十カイリに到達します。空母の飛行甲板には飛行機があげられ、時々試運転の青白い光や、ブースターを吹かす大きな音が鳴り響きました。
 1時30分(日本時間)、東の空が明るくなりかける頃、6隻の空母は一斉に風上に進路を向けて速力を上げ、第一次攻撃隊183機が各艦から次々と飛び立ちました。攻撃隊は艦隊の上空を旋回しながら集合し、隊形を整えて真珠湾へ向かいました。
 ホノルルのラジオ放送には変化はなく、アメリカ軍は全く気づいていません。2時45分、第二次攻撃隊167機が発進しました。

 攻撃隊指揮官は淵田 美津雄(ふちだ みつお)中佐で「奇襲」か「強襲」かで攻撃展開計画が別になっていました。淵田隊長「奇襲」と判断。淵田中佐は信号拳銃で一発の号竜を発放しました。「奇襲」の合図です。

 現地時間、攻撃予定時刻、八時の十二分前、淵田中佐は電信員の水木兵曹に「総飛行機あてに発信、全軍突撃せよ」と指示。真珠湾には敵飛行機は一機も飛んでいませんでした。

「水木兵曹、甲種電波で発信、我奇襲に成功せり」

 トラ・トラ・トラが発信されました。

 艦爆隊はホイラー陸軍航空基地に250キロ爆弾を浴びせ、フォード島海軍航空基地、ヒッカム陸軍航空基地を襲撃。雷撃隊は海面すれすれまで降下し、単縦陣で敵艦隊に肉薄し、魚雷を投下しました。戦艦ウエスト・バージニアオクラホマが爆発、炎上。水平爆撃隊は高度3000メートルから爆弾を投下。アリゾナに命中し、火薬庫の誘爆を引き起こして大爆発しました。

 戦艦5隻撃沈、駆逐艦2隻撃沈、標的艦1隻撃沈、戦艦3隻中破、巡洋艦3隻中破、航空機188破壊、航空機155損傷。

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 戦後の昭和20年(1945年)9月のこと。淵田大佐はアメリカの記者の取材を受け、占領軍の機関誌「スターズ・アンド・ストライプス」に顔写真とともに大きく掲載されました。するとその日の午後、黒人兵が淵田大佐の宿舎にやってきて、来い来い、と言う。淵田大佐は薄気味悪いと思いましたが、当時は占領軍の天下であり、逆らうと何をしでかすかわからないので、彼らについていきました。案内されたのは丸の内の郵船ビルで、黒人兵はそこのバーで働かされていたのでした。バーの楽屋裏に案内されると大歓迎を受けました。そこには大勢の黒人兵がおり、みな淵田大佐に手を差しのべて、飲みねえ、食いねえ、と勧めます。そして真珠湾空襲を誰が喜んだと思うか」と問いかけられ、その答えは「われわれ黒人だよ」と言うのでした。

 黒人は白と黒の差別待遇にいつも泣き寝入りしてきました。それが真珠湾攻撃で小気味よく白人の横づらを殴り飛ばしてくれた。黒人の溜飲を下げたといい、そのお礼だというのです。ただ、占領軍兵士の日本人との交歓は禁止されていたので、おおっぴらにはできないから、楽屋裏でガマンしてくれという申し出だったのです。淵田大佐は「皮膚の色が違うというだけの宿命的な人種的偏見の悲劇の一コマをここに見て、胸のふさがる思いであった」と述べています。



参考文献
 講談社文庫「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」中田整一(編/解説)
 新人物ブックス「真珠湾奇襲攻撃70年目の真実」市來俊男(著)
 KKベストセラーズ「歴史人」2011.6『真珠湾奇襲攻撃』松田十刻
参考サイト
 WikiPedia真珠湾攻撃

添付画像
 炎上するカリフォルニア(PD)

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真珠湾-12月8日を記憶せよ
http://www.youtube.com/watch?v=xKj08mdnySs