神となった「宗谷」

海の守り神「宗谷」。


 日本初の南極観測船「宗谷」は樺太犬タロ、ジロが乗った船ということで国民的存在となりました。そして昭和37年(1962年)、「ふじ」にその任務を引き継ぎました。その後、宗谷は北海道配備の巡視船の任務に就きます。

 当時、北洋の海では海難事故が相次いで起こっており、特に冬場は、着氷による漁船転覆、氷海での航行不能などが多発しました。すでに「つがる」「だいおう」「だいとう」といった船がパトロールにあたっていましたが、これに「宗谷」を投入したのです。この宗谷に北杜夫(きたもりお)さんが乗り込んで「どくとるマンボウ氷海をゆく」と題して宗谷航海記を書いています。

 昭和45年(1970年)3月16日、単冠湾(ひとかっぷわん)に大量の流氷が向かってきました。宗谷は緊急出動します。漁船11隻は損傷を受けながら脱出しましたが、7隻が流氷に押し流されました。風速30メートルもの猛吹雪の中、2隻はつぶされ、残る5隻の漁師たちは漁船を放棄し、流氷をつたって択捉島に脱出をはかりました。湿気を帯びた北洋の氷は簡単には割れません。5日にわたる悪戦苦闘の末、ソ連警備艇と会合し、生存者84名を引き取り釧路へ引揚ました。死亡・行方不明は30名にのぼりました。このときの生存者は次のように当時の様子を語っています。

「迎えの船がいつ来るのか不安だった。だから宗谷が来ることを知らされたときの喜びは大変なものだった。厚い氷をばりばり割って進んでくる大きな姿を見たとき、思わずジーンとなった。釧路に入港するまでわずか1日の乗船だったが、すぐに入れてもらった熱い風呂と炊き立てのご飯のうまさ。なによりも乗組員の心のこもったねぎらいを今日も忘れない」

 「厚い氷をバリバリ割ってくる宗谷をみたとき、思わず涙がこぼれた」という声に励まされ、宗谷は北洋サケ。マス漁前進哨戒のほか、海上保安学校の訓練船になったり、小笠原諸島の慰問団を連れて行ったりと活躍しました。

 ある夜、宗谷はカムチャッカ半島の陰に漂泊していると、外から声が聞こえてきます。なにか叫んでいるようですが、よく聞き取れず、ウィングに出てみると「海の守り神、宗谷」と誰かが叫んでいます。明々と灯をつけた漁船が近づいてきていました。漁船の乗組員がロープを投げろと言っています。宗谷の乗組員がロープに結んだサンドレット(錘のついた綱)を投げると、魚がいっぱい入った袋を結んでよこしてくれたのです。そして漁船は口ぐちに「頼むぞ宗谷。海の守り神」と叫びながら闇へ去っていきました。

 16年にもわたり海の守り神として活躍した宗谷も昭和53年(1978年)、解役が決まりました。竣工からすでに40年が経っていました。宗谷のサヨナラ航海では各港で少ない日で5,000人、多いときは15,000人が見学にきました。青森港では17,000人が詰めかけ、やむなく2,000人に見学をあきらめてもらうほどでした。海上自衛隊のヘリ2機が飛来し、宗谷の飛行甲板に江上純一海将「同じ海上に勤務するものとして、輝かしい『宗谷』の栄光と歴代乗組員の努力に最大の敬意を表します」というメッセージが投下されました。

 宗谷はスクラップが予定されていました。しかし、全国から「待った」の声がかかり、海上保安庁笹川良一・日本船舶振興協会会長らの協力を得て、東京・お台場の「船の科学館」に展示することになりました。

 10月2日、宗谷は竹芝桟橋で解役式を迎えました。式では海上保安庁長官が挨拶をしました。
「『宗谷』40年の歴史は戦前戦後を通じて、日本の歴史の変遷とその運命をともにしてきたもので、激しい移り変わりの一生でした。40年の長きにわたる間の国民、数々の喜びと悲しみがこの船に込められている。このたびの解役に際しても、国民の間から永久保存の声が沸き上がり『宗谷』の果たしてきた役割を思うとまことに感無量のものがあり、職員を代表して国民の皆様の『宗谷』に寄せられた御好意とご支援に対して厚く御礼申し上げたい」

 特務艦として大東亜戦争を生き抜き、引揚船として日本人を助け、海のサンタクロースとして灯台守に慕われ、南極観測船として日本国民に夢と希望を与え、海の守り神となった宗谷は40年の現役を退きました。



参考文献
 並木書房「奇跡の船『宗谷』」桜林美佐(著)
 新潮社「特務艦『宗谷』の昭和史」大野芳(著)
添付画像
 船の科学館に展示される宗谷 CC

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