死体なき大量殺人 〜 南京大虐殺は捏造!

遺体処理の数が捏造されていた。


 昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。ここより3週間にわたり30万にのぼる市民が大虐殺されたと言われてきましたが、死体はどこへいったのか?

 戦後間もなくの東京裁判南京事件が言及されたとき当然ながら死体はどこへ行った?となり、紅卍字会の埋葬記録が証拠としてあげられています。これには翌昭和13年3月15日まで埋葬合計は南京城内1793体とあり、満州特務班にも埋葬記録があり、一致しています。ところが城外の埋葬記録になると紅卍字会は3万5097体、満州特務班は2万9998体となり、5099体差があります。おそらく東京裁判のときに紅卍字会の記録は改竄されたのでしょう。紅卍字会の記録の12月28日の日付のところに埋葬場所も書かず、不自然な6466体埋葬という記録が見られます。もちろんこれらの数字は戦闘による死者が含まれていますし、城外ですと支那焦土作戦や常態化していた支那兵の暴行によるものも含まれています。

 また、東京裁判では崇善堂の埋葬記録112,266体埋葬という証拠が提出されていますが、当時、南京にいた上海派遣軍・大西一大尉は崇善堂について「当時、全然名前を聞いたことはなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない」と証言しています。大西大尉は南京特務機関長として上海派遣軍解散後も南京に1年居残った人です。
 昭和60年にジャーナリストの阿羅健一氏が国立国会図書館で崇善堂の資料を発掘しており、活動はほとんどなされていなかったことがわかっています。紅卍字会の下請けで小さな活動は行っていたと考えられますが、崇善堂はトラック1台しか保有しておらず、これで2月5日から3月5日までの一ヶ月の埋葬数が2500体で4月には城外で一挙に10万体を処理したというのだから明らかにおかしな話です。

 紅卍字会による3月から秋までの死体処理を加えると、南京戦で死体が処理されたと確認できる数は3万余りということになります。死体のほとんどは男性のものであり、埋葬場所が南京城外、特に揚子江沿いに多いことから、戦闘によるものがほとんどでしょう。下関付近での戦闘、支那督戦隊による自軍兵の銃殺、幕府山捕虜の反乱による射殺、反抗的な便衣兵・敗残兵の掃討によるものです。民間人を大量に虐殺したなど、そのようなものは誰も見ていないし、死体もないということです。

 東京裁判では捏造の埋葬記録が提出され、昭和20年(1945年)11月、支那国民党は南京の14の団体からメンバーを選出し、南京の調査委員会を作りました。この中のメンバーに紅卍字会は含まれていますが、崇善堂は含まれていません。そして市民に日本軍の暴虐や大虐殺を告発するよう呼びかけました。しかし、誰も告発するものがいません。しかたなく手をかえ品をかえて告発者を募って作文して裁判に提出するという始末でした。

 昭和20年(1945年)12月13日、南京戦の記念の日に上海の大公報は次のように報じました。
「わずか数軒だけが死者に供物を捧げ、故人を追慕し、また戦禍に生き延びた自分の僥倖(ぎょうこう)を願い、涙を流して当時の悲惨な出来事を語る人は殆ど居ない状態であった」「蒋介石集団(国民党政府)は日寇(日本の蔑称)の罪行を調査したとき、50万という(虐殺の)見積を提出したではないか。それが『わずか数軒』の供養とはどうしたことか」

 南京大虐殺・・・それは虚構です。



参考文献
 文春新書「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
添付画像
 南京住宅街、戦火収まれば壊れた馬車も子供達の楽しい遊び場(1937年12月20日 PD)

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これが真実、南京入城だ!
http://www.youtube.com/watch?v=Z3L3eVE1kQA