板垣征四郎と石原莞爾

作戦の石原、実行の板垣。


 満州事変、満州建国の立役者、板垣征四郎石原莞爾。作戦の石原、実行の板垣と言われました。大正9年(1920年)、石原が支那漢口の中支那派遣隊司令部付となったとき、派遣隊の参謀だったのが板垣征四郎です。二人は同じ東北出身ということもあり、たちまち意気投合しました。板垣は陸大で石原の2期先輩でした。

 昭和3年(1928年)10月、石原莞爾関東軍の作戦主任参謀に就任。翌4年(1929年)5月、板垣征四郎関東軍高級参謀に就任。二人は再会し、ここから数年にかけて名コンビの大活躍が展開され満州事変、そして理想郷・満州国建国へとつながります。

 板垣征四郎は軍人として威張ったり、先輩風を吹かせるような人物ではありませんでした。板垣が関東軍高級参謀に就任してまもなく、参謀部の北満演習旅行がありました。このとき石原莞爾は「戦争史大観」の講演を行い、板垣大佐をはじめとする関東軍参謀の面々が聞いていました。その日の夜、石原がホテルの寝床でふと目を覚まし、トイレにたったとき、板垣大佐の部屋の窓には明かりが灯っており、戸が半開きになっていました。明かりに誘い込まれるように板垣大佐の部屋に入ると、大佐は一心腐乱に何やら書き物をしています。

板垣「おお、君か。どうしたのだ。こんな夜更けに」
石原「板垣大佐、何を書いておられたのですか」
板垣「君が昼間の講演で語った戦略理論が、あまりにもすばらしい内容で深い感銘を受けたのでそれを忘れないようにと思って、要点を思い出しながら整理し、まとめているところなのだ」

 まったく先輩後輩の垣根のない、板垣の純粋な心、素直な姿勢が見て取れます。石原はこのとき「板垣大佐の数字に明るいのは兵要地誌班出身のためのみと思っていた私は、この勉強があるのに感激した」と後に出版した「戦争史大観」に書いています。

 昭和6年(1931年)9月、満州事変勃発。日本関東軍奉天満州軍閥・張学良軍を撃破。長春、営口方面の戦闘も順調に推移している中、東京の軍中央から軍事行動を中止せよ、との電報がひっきりなしに舞い込んできます。命令に従わなければ国家反逆罪で死刑になりかねません。石原莞爾「やめた、やめた、俺はもう作戦から手を引く」といって寝込んでしまいました。しかし、板垣は吉林派兵を参謀たちに納得させ、本庄軍司令官に説きます。「ここで軍がぐらついたらどうなるのか」と迫ると本庄司令官は「何をいうか」とすごい剣幕で応酬しました。粘りに粘ってついに本庄司令官の説得に成功し、吉林派兵が決定しました。

 板垣は豪胆なところがあり、満州で最後まで抵抗する馬占山軍閥に会見したいと申込みました。すると返電がきて「面会は謝絶する。万一来られても生命の安全については保証できない」という内容でした。しかし、板垣は「ハッタリですよ。それで臆しているようでは帝国軍人の看板を下ろさなければなりません。行きましょう」といって、馬占山に面会に行き、ハルビンの張景恵(後の満州国総理)と協力する約束を取り付けました。

 満州国が建国されると板垣は満州国執政顧問となります。国家を安定させるには税制が大切で満州国からの要請をうけ、日本の大蔵省から国有財産課長の星野直樹が派遣されました。星野は満州における租税制度の問題点、欠陥をとことん調べ上げ、合理的な租税体系案を練り上げました。ところが関東軍も近代的税制を研究し、方針を固めていました。星野は板垣に直談判し、関東軍の方針の取り消しを求めます。板垣は星野の話をじっくり聞き、いったん拒否します。しかし、星野は熱心にとき、ついに板垣は「よしわかった。君には負けたよ。われわれ関東軍がどんな心持でああいう決定をしたかを説明したまでだ。それがよくわかってくれれば、私のほうで何も言うことはない」と述べて星野案に協力するとしました。軍人として威張ることなく、民間人にも対等に接し、しかも天下の関東軍の決定まで撤回する板垣の度量の大きさに星野は並々ならぬ魅力を感じたといいます。

 板垣征四郎はその後、陸軍大臣支那派遣軍総参謀長、昭和16年(1941年)、陸軍大将に昇進し、朝鮮軍司令官に就任。昭和20年2月1日 - 第17方面軍司令官(兼任)。4月第7方面軍司令官となり終戦シンガポールで迎えました。そして連合国よりA級戦犯に指定され、昭和21年5月3日に東京へ移送されました。そして死刑の判決が出ます。

「自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである」

 昭和23年12月23日、死刑執行。石原莞爾は板垣へ「石原も遠からず追いつくことと考えますから、若し道のあやしいところがありましたらお待ちください。道案内は自信がありますから」との伝言を書き、板垣の遺髪を国柱会の霊廟に納めました。石原莞爾はすでに末期の膀胱ガンでした。翌昭和24年8月15日、石原莞爾も永眠。

 板垣征四郎石原莞爾東京裁判史観が支配する日本の言論空間は15年戦争という嘘を吐き続け、軍国日本と言って批判し続けますが、なぜか15年戦争とやらを開始したという二人を先頭にたてて悪人呼ばわりすることは避けているように思います。



参考文献
 PHP「板垣征四郎石原莞爾」福井雄三(著)
 中公文庫「戦争史大観」石原莞爾(著)
 PHP文庫「石原莞爾」楠木誠一郎(著)
 歴史読本2009.09「石原莞爾の生涯」阿部博行

参考サイト
 WikiPedia板垣征四郎

添付画像
 昭和14年1月5日、平沼内閣発足。左上薄い色の軍服姿が板垣征四郎。(PD)

広島ブログ クリックで応援お願いします。