幽霊でも殺害したのか? 〜 南京大虐殺は捏造!

幽霊でも殺害しなければ30万にはならない。


 昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。

 報知新聞 二村次郎カメラマン
「(城内に)中国人は誰もいませんでした。47連隊とはそこまでで、城内に入ってからは一人で行動しました」

 第9師団 19連隊第四中隊長・土屋正治
「市街に侵入すればするほどまだに『死の街』という感じを深くした。敵弾の飛来はもちろん、人影一つ見えず、粛然とした軒並みのみが果てしなく続いていた」

 支那事変南京戦は支那軍の大将がトンズラしてしまい、支那軍の降伏はなく、停戦も武装解除も行われませんでした。日本軍が南京城内に入るとガランとした街になっていました。このとき民間人は国際委員会が設けた安全区という避難区域に集まっていたのです。朝日新聞の記事で、公共防空壕から日本軍によって救出される民間人が撮影されており、いくらか安全区外にいた民間人はいるようですが、国際委員会の日本大使館宛の文書では「あらゆる市民は殆ど完全に難民区内に蝟集(いしゅう)し・・・」と書かれていることから数は多くなかったと思われます。そして支那兵が軍服を脱ぎ、民間人に化けて安全区に逃げ込んだり、城壁を登って城外に脱出したりしていました。それから日本軍の掃討戦が3日間行われました。

 南京の街は城壁に囲まれた城内と城外があります。南京戦が迫ると南京の住民は市外へ脱出しはじめました。

 ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前に南京を脱出したリリー・アベック女史
「ようやく15万人を数える小都市に成り下がってしまった」

 100万人はいた南京の人口が激減したことがわかります。金陵大学社会学科のスマイス教授は陥落当時の南京の人口は20万から25万と算出しています。南京戦になると城外で支那軍は焦土作戦を展開し、残された市民は城内の安全区に避難しました。ここにいた民間人と南京防衛にあたった支那兵士が南京の人口ということになります。

 国際委員会は安全区に住んでいた住民は6万8千、難民収容所は2万7千としており、支那防衛軍が3万から5万であったので、南京の人口は12万から14万が妥当なところでしょう。日本軍は便衣兵を区別するために年末から正月にかけて「良民証」というのを発行しており、その数は16万に達しています。陥落時の南京の人口は多く見積もっても20万というところです。

 この南京で30万人におよぶ虐殺があったというのが中華人民共和国の主張であり、日本国内でも工作員と思われる人がステレオタイプで叫んでいる話です。20万に満たない市民を30万虐殺したというのです。しかも翌昭和13年3月のスマイス教授の調査によると南京の人口は22万であり、手の届かないところを加えると25万から27万と推測しています。5月の住民登録では27万が登録されています。人口が増えていっているのです。

 これで30万の大虐殺があったというのなら幽霊でも殺害しないといけなくなります。しかも南京の人口はゼロになります。しかし、写真でも映像でも南京市民はたくさん映っています。

 中華人民共和国では南京陥落前のスマイス教授による人口調査の11月推定50万と翌年春の人口が20万前後というところを摘んで、50−20=30万の虐殺があったとしています。12月の南京陥落当時の人口は多くの資料20万前後を示していることを全く無視して自国民を騙しているわけです。



参考文献
 文春新書「『南京事件』の探求」北村稔(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 小学館文庫「『南京事件』日本人48人の証言」阿羅健一(著)
 「証言による南京戦史」(2)畝本正巳
添付画像
 南京の街で日本兵が買い物(昭和12年12月17日 PD)

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南京虐殺されたとされる南京市民。
http://www.youtube.com/watch?v=9gQYECnR4XY