命がけの脱出、そして「宗谷」に

二度の脱出劇。そして「宗谷」が待っていた。


 荻原雅隆さんは長野県小諸で生まれ、陸軍士官学校を出て、満州ソ連の国境に配属され、そこで終戦を迎えました。そして炭鉱で強制労働に従事させられることになります。一緒にいた10人の仲間は2年の間に4人が事故や病気で亡くなりました。

「親友の死骸を山まで担いで行き、墓穴を掘って埋めました。新しい土をかけ、そのうえに石を置き、短い生涯であった親友の冥福を祈った時、初めて涙が流れました。九州に父母兄弟を残し、誰にも知られることなく、彼はただ一人冥途に旅立ったのです。そしてその時、私は悲しみを通り越して、次は自分の番かと思いました」

 昭和22年(1947年)4月下旬、荻原さんは脱走を決心し、ひと月準備して決行しました。原生林を歩き、満州と朝鮮の国境、豆満江に到着しました。ここは身分証明のないものは船に乗って渡ることはできません。荻原さんは、炭鉱にいた朝鮮人にヤミ業者のことを教えてもらっており、そこへ行き、金をわたし、無事、豆満江を渡り切りました。

 荻原さんは南へ向かいますが、栄養失調の状態で、もはや体が言うことを聞かず、計画を変更し、会寧の街に入り、自ら警察に出頭して保護を求めました。留置場に入った荻原さんは同じ部屋にいた朝鮮人から「日本の最後の引揚船が、今年の冬、元山(げんざん)港に入る」という情報を得ます。この頃は元山は引揚船の港に指定されていないので、ガセネタか、別の港と思われます。
 あるとき、荻原さんは警察署長から呼び出されます。朝鮮人の所長は東京の大学を卒業し、海軍に入っていたという。流暢な日本語で話しかけてきて、北朝鮮金日成将軍の善政により、理想の国が生まれようとしています。多くの日本の青年男女が共鳴して、清津(せいしん)で教育を受けているのです。荻原さんにもぜひ、その様子を見てもらいたい。それで日本に帰りたいのであれば、帰るのは自由。その時には、我々が責任を持ってその手続きを取って差し上げます」

 「地獄に仏」とはこのことと、荻原さんは喜びました。ところが、留置場の同室のものから、恐ろしい話を聞かされます。実は朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断されており、政治、経済、警察、学校など上層部にいた日本人が居なくなってしまったため、一般常識に欠けるような朝鮮人が好き勝手に振る舞いはじめていたのです。そこで、金日成は優秀な人材を確保する必要があると判断し、日本で教育を受けた者、満州から逃げ込んでくる日本人を狙え」ということになっているというのです。清津の施設に入れば二度と出られず、どこに回されるか誰にもわからないし、そして逆らうものは処刑されるのです。荻原さんは話を聞いて血の気が引きましたが、「彼を知り、己を知れば、百戦危うからず」という孫子の兵法を思い出し、「是非施設を見せてください」と申し出ました。そして清津へ向かう汽車から飛び降り、再び大脱走を決行したのでした。

 昭和23年(1948年)の正月を荻原さんは清津の街で迎えました。浮浪者に混じって生活し、浮浪者の世話役に農家の日雇いを紹介され、日銭を稼いで生活しました。8月には引揚船の話を聞きつけ、興南へいきます。そこで、地主階層の両班(やんぱん)の祝宴に招かれたとき、故障したラジオがあり、ラジオ製作が得意だった荻原さんは直してみせます。すると近所からラジオ修理の依頼が殺到し、修理用具や部品を買いに街に出ることが多くなり、顔なじみになった店員より残留邦人の話や引揚船の情報が入るようになります。
 あるとき、顔なじみになったラジオ屋の主人が修理できないラジオが数台あると相談を持ちかけられ、それを修理して見せると主人は大喜びで、荻原さんはラジオ店の二階に住み込み、主人と二人で修理作業を始めます。店は予想以上の儲けを得ることができました。

 荻原さんは11月15日に北朝鮮の残留邦人を収容する引揚船が元山の港に入るというのをラジオ放送で知り、店の主人に胸の内を語ります。すると店の主人は日本の化学工場にいた技術者がその引揚船に乗るという情報を得、市の有力者やその会社の幹部に掛け合い、荻原さんを技術者の一員に加えるように尽力してくれたのです。

 昭和23年11月15日、荻原さんは元山港にいました。「そうや・・・」船の名前ははっきりそう書かれていました。荻原さんは引揚船「宗谷」のタラップを上がると嬉しさが込み上げ「日本に帰るんだ!」と感無量でした。宗谷は日の丸を掲げ(※1)、元山港をゆっくりと出航し、舞鶴へ向かいました。(※2)



※1 このころの日本は日の丸を掲げることができなかったが、賠償艦の引き渡し、その帰りの船には日の丸を掲げていたという証言もあり、宗谷が日の丸を掲げていた可能性は高い。
※2 舞鶴の記録には、この頃の宗谷の入港の記録はない。(引揚船のリスト舞鶴 http://w01.tp1.jp/~a021223941/hikiagmemory2.html)宗谷はこの年の11月6日に小樽で引揚任務を終えたのが公式記録であるため、特別任務だったと思われる。

参考文献
 並木書房「奇跡の船『宗谷』」桜林美佐(著)
 新潮社「特務艦『宗谷』の昭和史」大野芳(著)
添付画像
 宗谷2000/02/11CC

広島ブログ クリックで応援お願いします。


<宗谷 南極探検関連リンク>


白瀬南極探検隊記念館 http://hyper.city.nikaho.akita.jp/shirase/



白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクト http://www.shirase100.jp/index.html


TBS TBS日曜劇場「南極大陸」 http://www.tbs.co.jp/nankyokutairiku/

船の科学館 南極観測船”宗谷” http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/soya.html
日本財団図書館 船の科学館 資料ガイド3 南極観測船 宗谷 http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00032/mokuji.htm

みらいにつたえるもの http://www.geocities.jp/utp_jp/soya.html

岸壁の母
http://www.youtube.com/watch?v=VTrcbEEhW4Q