白瀬中尉の南極探検

日本初の南極探検。


 白瀬 矗(しらせ のぶ)は日本人初の南極探検を行った白瀬隊の隊長です。日本陸軍の軍人で、最終階級は陸軍輜重兵中尉。文久元年(1861年)6月13日、秋田県由利郡金浦村(現在のにかほ市金浦)で生まれました。家は浄土真宗の浄蓮寺で、幼名を知教と言いました。

 白瀬中尉は幼い頃から探検家を目指しており、当初は北極探検を夢見ていました。数え九歳のときに、浄蓮寺の近くにあった佐々木節斎という人の塾に通い、そこで、コロンブス、マゼラン、フランクリン探検隊の話を聞き、12歳のとき、北極探検を試みようと決心します。佐々木先生に北極探検実行方法の教えを請うと先生は呆れますが、次の五箇条を口述しました。

一、酒を飲んではいけない。
ニ、煙草を吸ってはならぬ。
三、お茶も飲んではならぬ。
四、お湯も飲んではならぬ。
五、寒中にも絶対火に当たらぬようにすること。

 白瀬中尉はこの五箇条を守り、寒さに強い頑強な体を作っていきました。85歳で死ぬまでこの教えを守ったといいます。

 白瀬中尉は明治23年(1890年)の秋(当時、特務曹長)、仙台第二師団の機動演習に参加していたところ、児玉源太郎少将(のち大将、日露戦争のときの満州軍総参謀長)に出会います。このときの雑談で北極探検の夢を語ると児玉少将は「まず千島列島か樺太に行き、厳しい寒さに耐えられるように鍛えるのが先だ。いきなり北極探検などと言っても笑われるだけじゃ。世間も耳を傾けてはくれまい」と助言され、千島探検を目指すようになります。

 白瀬中尉が千島探検の準備をしていた頃、海軍の郡司成忠(ぐんじしげただ)大尉が千島列島へ遠征して開拓事業を行うという計画を発表しました。白瀬中尉は郡司大尉の隊に参加することにし、明治26年(1893年)6月、千島へ向けて出発しました。向かう途中、船を失うなど散々でしたが、商船などを乗り継ぎ、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島へ上陸し、越冬します。翌年、5人の交代要員とともにさらに越冬。しかし、ビタミン不足からくる水腫病で3名が死亡。翌年、白瀬ら3名はラッコ猟船に救出されました。

 白瀬中尉は本土に戻った後、「千島義勇警備田漁兵設置」および「千島庁の設置」を国会に呼びかけますが、失敗におわります。明治37年(1904年)、日露戦争に召集され、翌年、負傷して帰国。東京の役人となり、明治42年、夢だった北極点到達をアメリカの探検家ローバト・エドウィン・ピアリーが達成したニュースを知り、目標を南極へ切り替えました。

 明治42年(1909年)、イギリスのスコット大佐が翌年、南極点踏破の再挑戦を表明。ノルウェーのアムンセンも南極点を目指すことになり、明治43年(1910年)1月、白瀬中尉が南極探検の経費10万円の拠出を要請する嘆願書を帝国議会へ提出します。予算は縮小されて通ったものの実際にはお金が下りず、大隈重信朝日新聞らの後援を受け、募金活動を行い、国民は熱狂的に応援に支えられ、紆余曲折の末、東郷平八郎大将命名の「開南丸」に乗り、総勢27名、樺太犬26頭とともに予定より3ヶ月余り遅れた11月29日に南極へ向けて出航しました。

 南極へ向かう途中に樺太犬寄生虫のサナダムシにやられてしまい、全滅に近い状態となり、出発が遅れた分、時期も悪く、南極へは氷に阻まれ予定上陸点にいけず、一旦、オーストラリアのシドニーに寄港し、明治44年(1911年)11月19日、シドニーから再び南極へ出発。翌年の1月19日、遂に上陸に成功します。

 白瀬中尉は南極点へ向かう突進隊5名と樺太犬28頭を2班にわけ、南極点目指して1月20日に出発します。

「トゥトゥ、カイカイ、トゥトゥ」

 トゥはアイヌの言葉で「進め」、「カイ」は「右へ」とうい意味です。樺太犬アイヌ人の山辺安之助と花守信吉が号令をかけ、橇(そり)を操縦しました。しかし、犬ぞりは荷が重過ぎて順調に進まず、何回か食糧を置いていかざるを得ませんでした。食糧を置いていくということは滞在時間も短くなるということです。何度も烈しいブリザードに襲われ、2班がはぐれてしまうというピンチもありましたしたが、犬の足跡をたどって合流することができました。

 1月28日、白瀬中尉は犬ぞりを止めると「よし、ここまでとしよう・・・ここで終わりだ」と隊員に告げました。食糧を考えるともう引き返す地点にきていたのです。

 南緯80度05分、西経156度37分、南極の地に日の丸がはためき、この雪原を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名しました。

 後に大和雪原は陸上ではなくロス海棚氷上であることがわかりましたが、当時としては知るすべはありませんし、白瀬中尉の功績が無になったわけではありません。昭和4年(1929年)アメリカのリチャード・バードは「大和雪原」の日の丸を確認し、命名の優先権は「大和雪原」としてそれが認められました。イギリスの王立地理学協会は昭和8年(1933年)、15ページにわたり白瀬中尉の探検を紹介し、評価しました。敗戦後まもない昭和31年(1956年)からの国際地球観測年(IGY)の南極観測に日本が参加できたのは白瀬中尉の実績が評価されていたからであるのは言うまでもないでしょう。昭和36年(1961年)、ニュージーランドロス海棚氷の東岸を「Shirase Coast(白瀬海岸)」と命名しています。



参考文献
 新潮文庫「極 白瀬中尉南極探検記」綱淵謙錠(著)
 成山堂書店南極観測船白瀬矗小島敏男(著)
 岩崎書店まぼろし南極大陸へ」池田まき子(著)
参考サイト
 WikiPedia白瀬矗
添付画像
 白瀬中尉(PD)

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<宗谷 南極探検関連リンク>


白瀬南極探検隊記念館 http://hyper.city.nikaho.akita.jp/shirase/



白瀬日本南極探検隊100周年記念プロジェクト http://www.shirase100.jp/index.html


TBS TBS日曜劇場「南極大陸」 http://www.tbs.co.jp/nankyokutairiku/

船の科学館 南極観測船”宗谷” http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/soya.html
日本財団図書館 船の科学館 資料ガイド3 南極観測船 宗谷 http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00032/mokuji.htm

みらいにつたえるもの http://www.geocities.jp/utp_jp/soya.html