日本民族再興の願い 〜 神風特別攻撃隊

神風誕生秘話。


 昭和19年(1944年)10月19日夕刻、フィリピン・マニラの第一航空艦隊司令長官、大西瀧治郎中将はクラークフィールドのマバラカット基地に向かう車の中でこうつぶやきました。

「決死隊を作りに行くのだ」

 大東亜戦争マリアナ陥落により、戦局は悪化し、この年の8月には人間爆弾「桜花」の試作が命じられていました。9月9日にはミンダナオ島ダバオが米機動部隊艦上機による大空襲を受け、12日にはセブ基地が空襲を受けました。201空零戦隊は壊滅的な損害を被り、フィリピン決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は戦わずして戦力を失いました。

 10月17日、米軍攻略部隊の一部がフィリピン・レイテ島のレイテ湾湾口にある小島、スルアン島に上陸を開始。18日、連合艦隊司令部は「捷(しょう)一号」作戦を発動。栗田艦隊をレイテに突入させ、航空部隊はその援護のため米航空戦力を封じる作戦です。しかし、第一航空艦隊には使用可能な飛行機は40機足らずしか残されていませんでした。

 10月19日、大西長官はマバラカットに到着すると副長・玉井浅一中佐らを呼び、話をしはじめました。大西長官についてきた副官の門司大尉は長官の宿泊準備や食事などの雑用のため、その場をはなれていました。深夜、士官室へ言ってみると大西長官、猪口参謀、玉井副長のほかに2,3人の士官がいました。

「猪口参謀が、髪をボサボサのオールバックにした痩せ型の一人の士官に『関大尉はまだチョンガー(独身)だっけ』と声をかけた。『関大尉』と呼ばれた士官は『いや』と短く答えただけでしたが、このやりとりで私は、この人が先ほど大西中将のいった『決死隊』の指揮官に決まったのだと悟りました」

 10月20日の午前10時、関大尉以下二十四名の搭乗員を集めて、大西長官は訓示を述べます。
「この体当たり攻撃隊を神風(しんぷう)特別攻撃隊命名し、四隊にわけそれぞれを敷島、大和、朝日、山櫻とよぶ。日本はまさに危機である。この危機を救いうるたるものは大臣でも、大将でも軍令部総長でもない。それは、若い君たちのような純真で気力に満ちた人である。みなはもう、命を捨てた神であるから、何の欲望もないであろう。ただ自分の体当たりの戦果を知ることができないのが心残りであるに違いない。私は必ずその戦果を上聞に達する。一億国民に代わって頼む。しっかりやってくれ」

 訓示が進むにつれ、大西長官の体が小刻みにふるえ、その顔が蒼白にひきつったようになったといいます。

 10月25日、関大尉らの敷島隊は敵空母、セント・ロー、カリニン・ペインへ体当たりしました。

 門司副官は大西長官に対し不平を持つ搭乗員はいなかったと述べています。
「それは、大西中将が、自分が生き残って搭乗員だけを死なせる気持ちのないことが、搭乗員にも肌で伝わったのではないか。長官は『お前達だけを死なせはしない』とか、『俺もあとから行くぞ』などという偽善的で安っぽいことは口にしなかったが、手の握り方ひとつとっても心がこもってた・・・」

 その後、梅花隊に任命された角田和男少尉は一航艦参謀長の小田原俊彦大佐より特攻の真意について聞かされました。大西長官からは「他言無用」と言われていたといいます。大西長官は「もう戦争を続けるべきではない」と言っているのだという。では、なぜ特攻を命じるのか。

「それは、一度でよいから敵をレイテから追い落とし、講和の機会を作りたいからだ。日本本土に敵を迎え撃つことにならないようにするためには、フィリピンを最後の戦場にしなければならない」
「これ(特攻)は九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。だが、ここに信じていいことが二つある。天皇陛下はこのことを聞かれたならば、戦争をやめろ、と必ず仰せられるであろうこと、もうひとつは、その結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族がまさに滅びんとするときに、身をもってこれを防いだ若者がいたという事実と、これをお聞きになって陛下自らのお心で戦をを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう、ということである」
「大西は、後世史家のいかなる批判を浴びようとも、鬼となって前線で戦う。天皇陛下が御自らの御意志によって戦争を止めろと仰せられたとき、大西は上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽りつづけた罪を謝し、特攻隊員のあとを追うであろう」

 昭和20年(1945年)8月16日、大西中将は「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決。神風飛行士の償いとして介錯もつけず、医者を呼ぶのを拒み、半日以上苦しみ、死の間際、奥様に「淑恵、平和になった時に、フィリピンに行き、私が住んでいたところ、特攻隊を作ったところにいきなさい。私はそこにいるから・・・」と言い残して絶命しました。

 昭和50年(1975年)、淑恵未亡人はマバラカットにある神風生誕の家に行き、大西中将がいた部屋に入り、夫・瀧治郎と再会を果たしました。



参考文献
 講談社「祖父たちの零戦神立尚紀(著)
 KKベストセラーズ「歴史人」2011.6『語り継がれる零戦の死闘』松田十刻
 桜の花出版「フィリピン少年が見た カミカゼ」ダニエル・H・ディソン(著)

添付画像
 敷島隊と水杯を交わす大西長官と玉井浅一中佐(PD)

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敷島隊
http://www.youtube.com/watch?v=tmnNj2h4AVI