済南事件

 1928年、北伐を再開した蒋介石は怒涛の快進撃を続け、あっと言う間に山東省の済南に達します。これに対し、日本は数万の居留民保護のための「第二次山東出兵」を決断し、5月に国民党軍との衝突が起こります。この時、内閣は田中義一内閣となっており弱腰外交から一転しています。

 1928年4月、在留邦人が多数存在している済南が包囲されます。田中義一内閣は山東へ出兵します。当地の南京、漢口の経験から日本人も暴行を警戒し、厳重な警備体制を敷きます。
 蒋介石が入場すると蒋介石は治安の維持を約束し、日本側の警備体制を解くことを懇請し、日本側はそれを信じて警備体制を解除します。ところが蒋介石軍の暴行が始まり、日本軍が出動、交戦となり、日本軍の死者9名、負傷者32名に上りました。

 悲惨だったのは日本人居留民であり、蒋介石軍に惨殺された死体を見た佐々木中佐は次のように記しています。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。あるものは焼かれて半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかるような始末である。わが軍の激昂はその極に達した」

 また外務省公電にも次のようにあります。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を押し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」
 
 これが支那人の虐殺手口です。後の通州事件でも、南京事変でも同様の手口です。こうして大陸の不安定は正当な権益を有する日本にとって容認できない状況になっていき、国民の怒りと不満は募っていったのです。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『済南事件蒋介石軍の蛮行止まず』江藤剛

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