日韓合邦を熱望した一進会

 日韓合邦は李容九らの一進会とよばれる政治結社が提唱していました。一進会東学党の流れを汲んでいます。東学党は1894年の東学党の乱で知られていると思います。
 1824年、没落した両班(貴族)の家に生まれた崔済愚が、万人平等、人間尊重を説き、貧しかった農民の間に浸透していきました。しかし李朝政府は1864年に民衆を惑わす邪道として彼を処刑します。しかし、二世教祖は隠れて教えの拡大を行い、三世教祖たちは首都で初代教祖の無実と不況の自由を訴えたため、李朝政府は弾圧に乗り出し、1894年に東学党の乱と呼ばれる武力闘争になっています。そして日清戦争勃発。
 日清戦争によって清国の敗北を見た東学の指導者たちは日本へ行って朝鮮開化党の志士たちと会合を重ね、清国やロシアと組むのではなく、日本と組まなければ朝鮮開化の道はないと理解し、「進歩会」と名を変え、大同団結して「一進会」を結成し100万余を号するようになりました。(当時の朝鮮の人口は900万余)

 日露戦争のとき、一進会の指導者李容九(イ・ヨング)は日本が勝利しなければならないとの確信から日本支援に踏み切り、全力をあげて鉄道建設を支援し、京城から以北の鉄道建設に協力した一進会は15万人といわれ、日本の物資を搬送した会員は10万人以上と言われています。これは一進会の強制でも日本軍の強制でも何でもなく、自弁です。

 1905年日韓保護条約の方針が発表されると一進会は「李朝政府の外交権を日本に委任せよ」と大規模デモを行い、伊藤博文が朝鮮統監として赴任してきた日には南大門に「歓迎」の巨大な幕が張り出されます。
 ハーグ密使事件で高宗が退位し、韓国軍は皇宮護衛を残して解散すると京城で市街戦が始まり、各地で反日暴動が起こります。反日暴徒は日本軍とだけ戦ったのではありません。一進会とも戦ったのです。

 一進会売国者ではありません。日韓合邦が韓国滅亡から逃れる唯一の道であったことを知っていたのです。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋著
参考サイト
 WikiPedia「李容九」「甲午農民戦争」「東学」


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