江戸時代の平和ボケの頃

 江戸時代は平和が長く続きましたが、そんな中で林子平(1738年8月6日−1793年7月28日)と言う人が、「三国通覧図説」というのを書いており、朝鮮、琉球蝦夷が侵略されると日本は危ういと説いています。次に「海国兵談」を書きます。これは学校でも習った人が多いのではないでしょうか。有名な一節がありますね。


 江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり。然るに此に備えずして長崎にのみ、備うるは何ぞや。
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 長崎で学んだ林子平は地球儀を見て、世界情勢を知って衝撃を受けたのです。林子平の「三国通覧図説」はドイツ語、フランス語に翻訳されています。1857年にペリーが小笠原を占領した際に、江戸幕府はこの三国通覧図説を使って交渉し、日本の領有を認めさせたといいます。小笠原諸島は日本が発見したという記述があったのです。林子平のなんという先見の明でしょうか。

 「海国兵談」を書くときは政治への口出しを嫌がる幕府に睨まれており、老中松平定信による出版統制を受けています。(寛政の改革・処士横断の禁1787年−1793年)ですので出版は大変だったようです。必死に国防の重要性を説いているのに幕府は取り合わない。平和ボケだったんですね。
 「海国兵談」は1787年の初版ですから、この頃にはロシアが樺太に侵入している頃です。1792年にはロシア使節ラクスマンが漂流民であった伊勢白子の大黒屋光太夫を護送して根室にやってきています。1797年には択捉島に上陸しています。
 幕府は1807年になってやっと樺太出兵命令を出しています。1806年ロシア海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにしてますから事がおこってからやっと平和ボケから目覚めたのでしょう。現在も日本は平和ボケしていますが、昔に比べて兵器の威力が比較にならないくらい強力ですから、事が起こってからでは手遅れでしょう。



参考サイト
 Wikipedia林子平」「海国兵談」「樺太」「蝦夷地」
参考文献
 「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二
 「世界史のなかの満州帝国」宮脇淳子


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