日本の台湾統治のはじまり

 日本が台湾を統治することになったのは1895年(明治28年)4月17日に締結された下関条約によるものです。それまで台湾は清王朝から使わされた官吏によって支配されていましたが、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐらい悪辣な略奪統治でした。日本の統治が決まると台湾の有力者らは「台湾民主国」を立上げ日本に抵抗します。台北城はは二万の守備。清国兵は5万。日本軍は台湾内の不穏な動きをキャッチし、近衛師団は上陸地点を変更し、陸路で港制圧に向かい、民主国軍と交戦になります。数は劣勢の日本軍ですが、民主国軍は烏合の衆であり、訓練された近衛師団とでは勝負にならず、民主国軍は交戦して敗れると、総統も将軍もさっさと本国へ逃亡してしまいます。そして残された兵士達は台北城内で略奪や放火、婦女暴行を繰り広げることになります。
 早い話「台湾民主国」は支那人が築いた財産を守ろうとしていたというだけで民衆のためのものではなく、民衆は清兵士たちの暴行を食い止めるべく日本軍へ使者を出し、台北へ手引きします。日本軍は清国兵を掃討し、降伏した兵は大陸へ送還したのでした。

 こうして日本の台湾統治がスタートするわけですが、日本国内では台湾を「植民地」として扱うか「内地延長」として扱うか議論が活発に行われており、「内地延長型」が統一見解となったようで、その後の政策にもしっかり現われています。
 「台湾人と日本精神」の著者、蔡焜燦氏(台湾人)によると「公学校(小学校)で習ったことは、台湾は樺太と朝鮮と同様に日本の領土であり、台湾が植民地であるなどという話しを耳にした記憶がない」「植民地という言葉は戦後になって出てきたものだと私は理解している」と著書で述べています。おそらくそうでしょう。戦後になって占領軍が日本人に罪の意識を持たせ、白人の植民地支配を非難できないようにする目的と、日台朝にデバイド・アンド・ルールを適用したというところでしょう。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦著
参考サイト
 WikiPedia「日本統治時代(台湾)」


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