漢口事件

 弱腰外交は漢口でも悲劇を生みました。1927年(昭和2年)4月、日本の水兵が散歩していると子供が石を投げてきて、水兵が追っ払う、そんなことをしている内に支那人が多く集まってきて日本水兵に言いがかりをつけはじめ、日本水兵を取り囲み殴り始めます。他の日本兵が顔を出すと彼らも殴られます。支那人の一人が日本兵に突き飛ばされると、支那人は気絶の演技をし、他の支那人が「殺された」と叫び始め、暴徒と化します。暴徒は凶器を持って手当たり次第に破壊し、略奪します。

 この暴動の中で日本人は拉致されますが、支那当局は暴徒に対して「日本側に有利な条件を容れしむる人質なれば、そのまま返さば承知せず」と安易に解放するな、と言っているのです。弱腰外交の日本につけ込んでいるわけです。

 揚子江一帯に住む約3,000人の日本人は長年苦労して作り上げてきた財産、資産、家宅を手放し命からがら日本へ帰ってきました。租界も領事館も日本の主権であり主権が侵害されたにも関わらず、政府は何もしなかった、軍は動かなかったのです。

 内閣は田中義一内閣に代わり、ようやく自衛のための武力行使は辞さないことになりますが、英国は対中融和に大転換し、支那ナショナリズムの矛先が日本へ行くように仕向けられました。そういった変化を日本は読み取れず、日本外交は完全にボケていたといえます。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
   『漢口事件 反日・侮日の嵐』江藤剛
   『もうひとつの南京事件の真実』田中秀雄


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