昭和天皇は三度退位を覚悟された

 昭和天皇立憲君主制の下「神聖不可侵」であったため、敗戦については政治的責任はありませんでしたが、国家元首としての道義的責任はあるというのが大方の見方ではないでしょうか。これは終戦当時も近衛文麿、皇族の東久邇宮、首相の鈴木貫太郎が言及してます。私の祖父の記録にも「退位すべき」と書いてあり、当時、そのような論調が結構あったことをうかがわせます。実際、昭和天皇は三度退位の意を表されています。

 一回目は昭和20年8月29日、昭和天皇木戸幸一内大臣に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍びがたきところとなるが、自分一人引き受けて、退位でもして収める訳には行かないだろうか」
 当時、言われていたのは天皇は皇太子に譲位して高松宮を摂政とするものでした。しかし、木戸内大臣は退位を言い出せば共和制論議がおこったり、戦争犯罪者と認めたとして訴追される可能性があるとして反対し、鈴木貫太郎も「今、退位すれば日本は混乱する。在位のまま戦争責任(道義的責任)を負っていかねばならぬ」と考え、結局思いとどまることになります。

 二回目は東京裁判の判決のときで、このときはマッカーサーの反対にあいます。これは朝鮮半島情勢や東ヨーロッパの情勢で共産勢力が台頭しており、マッカーサーは日本をアジアの反共の砦にしたかったため、この時期の退位は共産勢力を助長することになると考えたためと言われています。
 昭和天皇はそれでも国民に対して謝罪の意を伝えようとし、側近等で文案を作りますが、うまくいかず、側近たち出さないことに決めます。しかし昭和天皇から苦情を言われ、宮廷記者に「天皇陛下現在のご心境」の記事を書いてもらうことになります。「国民を今日の災難に追い込んだことは申し訳なく思っている。退くことは責任を果たす一つの方法と思うがむしろ留位して国民と慰めあい、励ましあって日本再建のためにつくす」朝日新聞

 三回目はサンフランシスコ平和条約のときで、皇室だけなんら責任をとらないのは割り切れぬ空気を残すことになるというものです。しかしこのときは吉田茂の反対にあってかないませんでした。国会で中曽根康弘天皇退位について吉田茂首相に質問したところ、吉田首相は中曽根を"非国民”呼ばわりしたそうです。
 1959年の皇太子殿下御成婚の際も退位の噂が流れており、岸首相は公然と否定しています。皇太子殿下の新宮殿が建設中であったことからただの噂と見られていますが、もしかしたらとも思えます。

 昭和天皇は道義的な敗戦責任という十字架を背負われたまま、国民のために祈り続け、そして昭和64年崩御されました。今上天皇も十字架を引き継がれていると言われています。我々国民は十字架をおろして差し上げなければなりません。そのために我々国民が何をすればよいか考えていかなければならないと思うのです。



参考文献
 「日本人としてこれだけは知っておきたいこと」中西輝政
 文春新書「父が子に教える昭和史」『天皇退位〜三度の決断の機会は?』高橋紘
 週刊新潮09.4.16「英国『機密ファイル』に刻まれた天皇陛下『御成婚秘話』」徳本栄一郎
 「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀編



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