日台史

誇り高き高砂族

高砂族は誇り高かった。 高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)というのはは大東亜戦争時に、台湾原住民により編成された日本軍の部隊のことです。フィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設されました。 高砂義勇隊をフィリピンに派遣す…

二・二八事件 決起したのは日本人?

戦後の台湾は支那人による汚職、不正が横行し、支那人は台湾人を差別、迫害を徹底して行い、政府の役人、官憲は支那人に占められました。「犬(日本人)が去って豚(支那人)が来たり」と言われたそうです。犬はうるさいが守ってくれる。豚は働かずたたむさ…

日本敗戦後の台湾の支那兵

昭和20年8月の日本敗戦後の在日の台湾人は朝鮮人とともにGHQより「三国人」(the third nation)と言われていました。台湾人の場合は台湾は中華民国になるので「戦勝国民」とされ、在日台湾人は台湾へ帰ることになります。ところが台湾に帰った台湾人は…

長谷川清総督と愛国乙女サヨン

昭和15年に長谷川清海軍大将が台湾総督に着任します。日露戦争のときに三笠に乗船しており、『三笠艦橋の図』で東郷平八郎海軍大将の背後に描かれた測距儀の上から軍帽だけ見えているのが長谷川清です。顔は見えませんが・・・ 台湾総督の着任式後の歓迎レ…

すばらしかった日本の教育 − 台湾

台湾の日本統治時代を知る人の著書にはいずれも日本教育のすばらしさを書いています。これは制度だけでなく、教師の教育にかける情熱、教育の質の高さを称賛しています。 台湾で行われた科目を拾ってみますと算数、理科、会話、音楽、体育、国語、地理、歴史…

明石元二郎

明石元二郎(あかし もとじろう)1864年9月1日(元治元年8月1日) - 1919年(大正8年)10月26日)日露戦争中に、ロシア革命支援工作を画策し、多大な成果をあげ、日露戦争の日本勝利に大きく貢献したことで有名です。ドイツ皇帝ヴィルヘルムは「明石一人で、…

君が代少年

1935年(昭和10年)4月21日、台湾中北部を大地震で公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷きになりました。少年は虫の息になりながらも、駆けつけてきた先生を見上げて国家「君が代」を歌い、そして静かに息を引き取ったというものです。この少…

台湾近代化の父「後藤新平」

1895年の下関条約締結当時、清国の全権・李鴻章(り こうしょう)は伊藤博文首相に「台湾には四害あり、統治は不可能だ」として、日本に台湾割譲を諦めさせようとしました。この「四害」とはすなわち、アヘン、土匪、生蕃(原住民)、そして瘴癘(しょう…

日本の台湾統治のはじまり

日本が台湾を統治することになったのは1895年(明治28年)4月17日に締結された下関条約によるものです。それまで台湾は清王朝から使わされた官吏によって支配されていましたが、「三年一小反」「五年一大乱」という具合に住民の反乱が絶えないぐら…

台湾人の皇室への思い

1935年(昭和10年)4月21日、台湾中北部を大地震が襲いました。死者は三千名を超える未曾有の大惨事となりました。昭和天皇は入江相政(いりえすけまさ)侍従を遣わし、被災地の民家を一軒ずつ回られ、その被災度によって昭和天皇からのお見舞金を下…

八田ダム

18世紀末、台湾では土地開発は飽和し、人口過剰による食糧不足となり、19世紀に入ると飢饉が深刻化し、コメを輸入に頼るようになります。流入する漢人との土地をめぐる対立も激しくなります。しかし、日本統治時代に入りコメ生産量は4倍に急増し、砂糖…

六士先生

日本の台湾統治前の台湾の教育は「書房」と呼ばれる日本の寺子屋に相当するような庶民階級の子弟教育の場がありましたが、個人的な教育の場であり、教師の自宅や寺を使っていたため、環境が不十分だったのと、教師に使命感が乏しかったようです。就学率もか…

霧社事件

清国統治時代の台湾では中央山脈や東部の広範囲を支配することができませんでした。後に高砂族と称される生蕃(せいばん)が清の侵略に抵抗し、軍隊が来襲しても撃退するほどの戦闘能力を持った集団だったからです。 日本の統治に入ってからも日本軍は3,000…

牡丹社事件

1871年、琉球の宮古島の朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部に漂着しました。乗組員69人のうち、3人は水死、残りはパイワン族の部落、牡丹社(ぼたんしゃ)に救援を求めましたが、仇敵の漢人と間違えて54人が首を切られて殺されてしまいます。生…