尼港事件

 尼港事件(にこうじけん)は1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)という革命派によって黒竜江アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件です。
 1920年1月に日本軍守備隊は革命派の討伐を行い、2月には講和しました。しかし、尼港に入ってきた革命派は協約をごとごとく無視し、革命裁判を行い、虐殺、投獄を行い、日本軍殲滅の準備を行います。3月には日本軍と交戦し、日本兵は大半は戦死。資本主義階級の資産家は虐殺され、官吏、市民、そして日本人居留民が虐殺されます。

 一命を取り留めた日本軍人の手記
「公然万衆の面前において暴徒悪漢群がり、同胞夫人を極端に辱めて獣欲満たし、なほ飽くところを知らず、指を切り、腕を放ち、足を断ち、かくて五体をバラバラに切り刻むなど言外の屈辱を与へ、残酷なる弄り殺しをなせり」

 革命派は日本救援軍が近づくと収容していた日本人すべてを惨殺しました。日本人以外も6000人が虐殺されたといいます。日本人被害者は約700人で半数は民間人でした。
 日本はソ連にたいしてトリャピーチンの処刑と領土の割譲をもとめますが、トリャピーチンは死刑になりましたが、領土割譲に応じなかったため北樺太を一時保障占領しています。

 この事件は日本からみればとんでもない虐殺事件ですが、ロシアから見れば日本のシベリア出兵の延長線上のことであり容認する見方が多いようで、トリャピーチンの処刑は日露戦争に続いて屈辱的なものであったようです。1945年の日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦し、シベリア抑留を行ったのも復讐という感覚であり、ロシア人は罪悪感は持っていないようです。



参考文献
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」『尼港事件血に染まったシベリアの港町』江藤剛
 「騙しの交渉術」杉山徹宗著
参考サイト
 WikiPedia「尼港事件」


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