君が代少年

 1935年(昭和10年)4月21日、台湾中北部を大地震で公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷きになりました。少年は虫の息になりながらも、駆けつけてきた先生を見上げて国家「君が代」を歌い、そして静かに息を引き取ったというものです。この少年は「君が代少年」と呼ばれ学校には少年の銅像が建てられました。
 これは作り話という説もあるようですが、当時の日本人(台湾人)が「公」というものを強く意識していたことには間違いないでしょう。台湾では学校の先生が黒板に「公」という字を大きく書いて「私」という字を小さく書く。これが国民の誉れと教え、国家と国民のあるべき精神と教えていました。おそらく内地でもそう教えていたでしょう。「滅私奉公」の精神であり、これは教育勅語の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」として国民の義務として教えられていました。
 戦時体制下、台湾でも金属などの供出が行われ、家庭でもネクレスやイヤリングといった指輪まで供出しました。楊 素秋著「日本人はとても素敵だった」によると「この指輪だけは」という母に対して父が「国が無かったら駄目だが、平和になればいくらでも買えるんだよ」と言って説得したと書かれています。「公」が無ければ「私」が無いということを言っています。

 戦後、日本ではこういうものは皇民化教育であって良くない事、として教育勅語は廃止になり、「公」を教えなくなり、滅私奉公などばからしいという風潮になってしまいました。ほんとにこれで良いのでしょうか。残ったのが「私」だけとなれば「求める」だけになります。求めても応じられなければ、親が悪い、世の中が悪い、政治が悪い、になります。求めに応じてもらっても感謝せず当たり前という感覚になります。我々日本人は大切なものを忘れてきてしまったような気がします。


参考文献
 「台湾人と日本精神(リップンチェンシン)」―日本人よ胸をはりなさい 蔡 焜燦著
 「日本人はとても素敵だった」楊 素秋著


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