牡丹社事件

 1871年、琉球宮古島朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部に漂着しました。乗組員69人のうち、3人は水死、残りはパイワン族の部落、牡丹社(ぼたんしゃ)に救援を求めましたが、仇敵の漢人と間違えて54人が首を切られて殺されてしまいます。生き残った12人は漢人部落に保護され、翌年6月、福建省を経由して那覇に帰還しました。牡丹社事件と呼ばれています。
 明治政府では主戦論と非戦論が出ましたが、明治天皇副島種臣に全権を委ね、柳原前光を副使とし、清国との交渉へ向かわせます。このとき、清国側から同治帝への国書奉呈の謁見の際に、「跪拝の礼」(ひざまずいて礼する)を要求されましたが、日本は清国の属国ではないとして拒否し、「三揖」(立礼三回)を行いました。対等な立場での謁見です。
 日本の使節に対して清国政府は「台湾東南部の正番は、化外の地(統治の及ばない場所)の民であるため、その所業の責任を負う事はできない」と回答してきました。そこで柳原公使は「彼らの凶悪を懲罰し、文明の征伐を図ることは、開化政府の当然の義務である」との捨て台詞を残して引き揚げました。実際にこの頃、清国は台湾に対しては福建省に属していましたが、消極的支配で東部には実効支配が及んでいなかったようです。
 
 1874年(明治7年)4月、近代日本初の海外派兵が行われます。軍艦五隻、舟艇十三隻、兵員3,600名を率いていて台湾へ発進。一月足らずで事件発生地域を制圧します。しかし日本軍の死者は538人も発生。このうち、戦死者はわずか12人、ほとんどがマラリアなどの風土病で死亡しました。2,800人がマラリアを患ったといいます。

 その後、イギリス公使ウェードのとりなしで清国との間に和議がもたれ、清国は「化外の地」発言を翻し、台湾の領有を主張、日本軍の即時撤退を要求してきました。交渉の末、日本は台湾全土の清国領有を容認し、代わりに清は日本の台湾出兵を「住民を守るための義戦」と認め、賠償金50万両を支払うことになり、琉球が日本に帰属することを確認しました。

 日本と台湾の間にはこのような歴史がありますが、2005年6月、台湾原住民パイワン族使節18人が沖縄県那覇宮古島を表敬訪問しています。一項はいずれも牡丹社事件の当事者の子孫で、事件の和解と被害者の追悼を目的としていました。このお返しに2008年1月、宮古島関係者が訪台し、牡丹郷の古戦場で地元住民らと「愛興和平」の記念儀式を行っています。

 大切なのは未来ですね。



参考文献
 「日本の植民地の真実」黄文雄
 オークラ出版「拉致と侵略の真実」
参考サイト
 Wikipedia台湾出兵


広島ブログ クリックで応援お願いします。