江戸時代

ペリーが見た江戸日本

ペリーが日本を見て驚いたこと。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。ペリーは翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航…

日米和親条約締結

戦争を回避し、無事条約締結。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号な…

ペリーとの交渉で通商回避を成功させた林大学頭

優れた交渉術だった。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌年再び来航し、条約交渉が始まりました。アメリカ側は「親睦」「通商」「石炭…

日本開国へむけてオランダはどういうスタンスをとったか

唯一西洋の通商国オランダはどうしていたか。 江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、オランダ、清とは長崎で通商を行っていました。いってみればオランダは日本との通商を独占に近い形で行っていました。幕末日本が開国か、攘夷かに迫られたとき、オランダ…

ペリーは恫喝外交をおこなったのか

平和的交渉とは言えなかった。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「…

黒船来襲、開国か攘夷か

割れた国論。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)…

江戸幕府は黒船が来ることを知っていた

江戸幕府は無知無能ではなかった。 江戸時代は鎖国をしており、江戸幕府は海外事情に疎く、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊が突然現れて、幕府は仰天して右往左往した・・・黒船来襲はこのような認識を持っている人が多いのではないでしょうか。あと「異…

幕末期の暦と時刻の違いによる混乱

江戸時代は太陰暦で不定時法だった。 現在の日本の暦は太陽暦を使っていますが、江戸時代は太陰暦を使っていました。月の満ち欠けの周期を1ヶ月とする暦法です。十五夜お月様はちょうど15日になります。太陰暦では1年が354日になるため、閏年をはさん…

江戸時代に来日した外国人は天皇をどう見たか

江戸時代も天皇は日本の不動の核であった。 江戸時代は将軍がいましたから天皇と「大君」が二人いたわけです。将軍は政治、行政の長にあり、天皇はというと「禁中並公家中諸法度」により行動は厳しく制限されていました。天皇は学問、管弦、和歌、雑芸、神事…

江戸時代は裸を見られてもへっちゃらだった?

裸を見られて恥ずかしいと思うのはアダムとイヴ観。 幕末に来日したドイツ考古学者シュリーマン(慶応元年 1865年来日)は公衆浴場の前を通ると、男女ともに同じ湯に入っているのを見かけます。ドイツ語は名詞に「男性形」「女性形」「中性形」がありま…

陽気で無邪気で好奇心旺盛な江戸日本人

世界で一番人間性豊かな民族だったのかもしれない。 フランス海軍士官・スエンソンは慶応3年(1867年)に横浜にやってきました。日本人が汚らしい声で何やら言ってくるのが耳に触りました。「そしてこちらも疑い深い目で周囲の色黒でずんぐりした連中を…

礼儀正しく、親切だった江戸日本人

知らない人にでも挨拶し、親切だった。 幕末に来日した宣教師、S・R・ブラウン(安政6年 1859年来日)は、江戸幕府からキリスト教を広めるのではないかとの疑惑をいつも意識させられていました。ある日、街路を歩いていると、家来を連れた幕府の警察上役…

失われていったユートピア、江戸文明

愛しき純ニッポン。 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、黒船来襲。ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊が浦賀沖に現れます。以降、江戸幕府は開国の道を歩むことになります。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約締結、安政5年(1858年…

鎖国中の江戸日本は外国人に興味津津

江戸日本は外国事情に通じていた。 江戸時代は鎖国していましたから、国内には外国人はオランダ人、支那人だけ長崎の出島にしかいませんでした。オランダ人の商館長は「カピタン」と呼ばれていました。カピタンは貿易業務の閉期に江戸へ参府することが義務付…

江戸時代の結婚相手探し

結婚はどうやって決めていた? 現代は恋愛結婚が主流ですが、江戸時代はどうやって結婚相手を探していたのでしょう。明治に入ってですが、長岡藩城代家老の家柄だった稲田家の六女の杉本鉞子(えつこ)(明治五年生まれ)は13歳のとき母親に呼ばれこう言わ…

江戸時代最後の宣教師シドッティ、天に召される

シドッティの情熱は新井白石の「西洋紀聞」に残された。 江戸時代最後の伴天連(バテレン)、イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。シド…

シドッティとの問答により得た新井白石のキリスト教観

キリスト教は一宗教と結論づけた新井白石。 江戸時代最後の伴天連(バテレン)、イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。シドッティは捉え…

新井白石とシドッティの交流

尋問を経ていくうちに交流は深まっていった。。 イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。当時、キリスト教は日本では禁教ですから、処刑さ…

新井白石 VS ジョヴァンニ・シドッティ

シドッティに興味津津の新井白石。 イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。当時、キリスト教は日本では禁教ですから、処刑されるかもしれ…

江戸時代最後の宣教師シドッティ、長崎へ行く

シドッティ曰く、オランダ人は「タバカリ!」 イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。キリスト教は日本では禁教ですから、処刑されるかも…

江戸時代最後の宣教師、シドッティが屋久島にやってきた

日本人の格好をして現れた宣教師。 宝永5年(1708年)8月のある日、屋久島の恋泊村の藤兵衛は炭焼きの材料にする木を伐りに島内の松下という所へ行きました。すると松林の中から人声がするので、見ると長身の男がいます。頭は月代(さかやき)にそり、…

清潔好きだった江戸日本人

昔も今も日本人は清潔好き。 幕末に来日した外国人は日本人は清潔な国民であることを指摘しています。 イギリス公使オールコック (安政6年 1859年来日) 「一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずに度々からだを洗い、身につけているものはわずかで…

プライバシーが必要なかった江戸日本

プライバシーがなかったのではなく、必要なかった江戸日本。 江戸時代、庶民の家は開けっ放しだったので、幕末に来日した外国人は驚いてそれを記しています。 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日) 「日本人の家庭生活はほとんどいつでも…

日本女性は美しかったが外国人はお歯黒が苦手だった

日本女性は日本の風景に溶け込んでいた。 幕末に来日した外国人は日本女性の美しさを称賛しています。 イギリス公使オールコック (安政6年 1859年来日) 「女は自然によって与えられた肌に満足しているようだ。その肌は、多種多様な色合いのオリーブ色…

武士の質素な生活様式に外国人は驚いた

日本の武士階級は西洋の王、貴族階級とは全く異なった。 幕末に来日した外国人は当然ながら日本人の生活様式に興味をもちました。庶民の暮らしはすぐわかりました。何しろ日本ではみな開けっぴろげで生活していたからです。 スイス公使のアンベール(文久3…

景気刺激のための放火?江戸の火事

火事と喧嘩は江戸の華といいますが・・・ 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれるほど江戸では火事が多かったのですが、幕末に来日した外国人もこのことに注目しています。 イギリス公使、オールコック 安政6年5月3日(1859年6月4日)来日 「(江戸の…

江戸時代、馬車がなかったわけ

江戸時代は労働組合が不要だった。 「えいほ、えいほ」と江戸時代、人を運ぶ乗り物は駕籠があったのは知られているでしょう。乗り心地はどうだったのか。幕末に来日した外国人の観察を見てみます。 イギリス公使、オールコック 安政6年5月3日(1859年…

オールコックが注目した日本の美

オールコックは日本の美を欧州に紹介した。 イギリスの公使オールコックは安政5年(1858年)日英修好通商条約が締結されたのち、極東在勤のベテランとしての手腕を買われ、初代駐日総領事に任命され、安政6年5月3日(1859年6月4日)に来日しま…

幕末に来日した外国人は日本の芸術品に飛びついた

世界が熱狂した"ジャポニズム" エルギン卿使節団のオリファント 安政5年(1858年)来日 「これらの会所(下田の会所)はもっとも人をいらいらさせる場所である。そこにはたくさんの品が並び、どれも美しく新奇なので、人は唖然とした気持ちになり、覆い…

治安が良かった江戸日本

今でも世界に比べたら格段に治安がいい日本。 幕末に日本にやってきた外国人は過激な攘夷派の行動は別として日本の治安の良さには驚いています。 長崎で西洋医学を教えていたヨハネス・ポンペ 安政4年(1857年)来日 「自宅のドアに鍵をかけるなど、ま…