プライバシーが必要なかった江戸日本

プライバシーがなかったのではなく、必要なかった江戸日本。




 江戸時代、庶民の家は開けっ放しだったので、幕末に来日した外国人は驚いてそれを記しています。

 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)
「日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を広げたままで展開される。寒さのために家中締め切らざるを得ないときは除いて、戸も窓も、風通しを良くするために全開される」

「鏡台の前に座って肌を脱ぎ胸をはだけて細部に至るまで念入りに化粧をしている女たちにもいえる。全神経を集中させてしている化粧から一瞬目をそらせ、たまたま視線が通りすがりの西洋人の探るような目に出会ったとしても、頬を染めたりすることはない」

こんなわけですから、外国人はいとも簡単に日本人の生活を知ることができ、その内容を記しているのです。商店も同じように奥まで開けっぴろげでした。

 イギリス公使オールコック (安政6年 1859年来日)
「すべての店の表は開けっ放しになっていて、なかが見え、うしろにはかならず小さな庭があり、それに、家人たちはすわったまま働いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ − 朝食・昼寝・そのあとの行水・女の家事・はだかの子供たちの遊戯・男の商取引や手細工 − などがなんでも見える」

 お店(みせ)の場合は"見せ"ということで、作っているところも見せて買い手を安心させるというのがありますが、生活まで全部見えていたわけです。

 旅行家イザベラ・バード(明治11年 1878年来日)は日本に来てプライバシーがないことに驚いています。粕壁(春日部)で宿をとると襖や障子で仕切られた部屋に驚きます。

「わたしは障子という格子に薄紙を張った窓の戸を閉め、ベッドに入りました。が、プライバシーの欠如たるや恐ろしいものでした。わたしはまだ鍵や壁やドアのないところで落ち着き払っていられるほど他人を信用していません!」

いきなり襖をあけて少女が入ってきたり、按摩がきて何やらいったり、お経を唱える声、三味線の音などがして「たまったものではありません」、なのです。
 栃木でもバードは障子で仕切られた部屋をとるしかなく「プライバシーは思い出すことすら御法度の贅沢品でした」と述べています。そしてやっぱりいろんな人が障子を開けてくるのです。

「宿の使用人はとても騒々しくて粗野で、なんの口実もなくしきりに部屋の中を見に来ます。宿の主人は快活で愛想の良さそうな男でしたが、同じように部屋をのぞきにきます。大道芸人や楽士や盲目のマッサージ師や歌うたいの少女がこぞって障子をあけます」

そしてここでも夜がふけるとドンチャン騒ぎが始まり、琴、三味線、太鼓、銅鑼がなりはじめてしまいました。この晩はバードは諦めたようです。特に文句をいう記述はありません。バードもこの後はだいぶ慣れてきた(耐えた?)ようですが、秋田の神宮寺では40人ほどが障子をはずして押し入ってくるようなことがありました。しかし、バードはこの後、なんの危険もなく旅行を続け、北海道の函館からは通訳も伴も連れずにたった一人で旅をしました。

 プライバシーがないというのは、安全の裏返しで、周囲から区切らなくても安全を確保できるということです。危害を加えられることもないし、何か盗られることもない。何かを見られてもそれが害に発展することもないということです。江戸時代はプライバシーが必要のない安心安全社会だったのです。



参考文献
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 講談社学術文庫イザベラ・バード日本紀行」イザベラ・バード(著) / 時岡敬子(訳)
 平凡社イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」宮本常一(著)
添付画像
 江戸東京たてもの園 Auth:Nesnad(CC)

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