江戸時代は裸を見られてもへっちゃらだった?

裸を見られて恥ずかしいと思うのはアダムとイヴ観。




 幕末に来日したドイツ考古学者シュリーマン(慶応元年 1865年来日)は公衆浴場の前を通ると、男女ともに同じ湯に入っているのを見かけます。ドイツ語は名詞に「男性形」「女性形」「中性形」がありますが、日本語にはないので、日常でも実践されていると感じます。そして「なんと清らかな素朴さだろう!」と叫びます。すると驚いたことにシュリーマンが持っていた時計の鎖についていた紅珊瑚の飾りを間近に見ようと素っ裸の日本人たちが飛び出してきたのです。

 エルギン卿使節団のオズボーン 安政5年(1858年)来日 江戸郊外にて
「五時、すべての者が湯を使っていた。“清潔第一、つつしみは二の次”というのが彼らのモットーであるらしい。ある場合には、風呂桶は戸口の外に置かれていた。・・・桶が一回の部屋(土間)におかれている場合もあったが、なにしろ戸は開けっ放しなので、美しきイヴたちが浴槽から踏み出し、たぶん湯気を立てて泣きわめいている赤子を前に抱いて、われわれを見ようとかけ出してくるそのやりかたには、少々ぞっとさせられた」

女性が素っ裸で外人を見ようと駆け出してくるのですから、ギョッとします。

 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)
「日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を広げたままで展開される。寒さのために家中締め切らざるを得ないときは除いて、戸も窓も、風通しを良くするために全開される」
「鏡台の前に座って肌を脱ぎ胸をはだけて細部に至るまで念入りに化粧をしている女たちにもいえる。全神経を集中させてしている化粧から一瞬目をそらせ、たまたま視線が通りすがりの西洋人の探るような目に出会ったとしても、頬を染めたりすることはない」

銭湯は外から丸見え、しかも男女混浴、女性は裸を見られてもへっちゃらだったわけです。

 スイス公使のアンベール(文久3年 1863年来日)
「夏の間、百姓や漁師や労働者はほとんど真っ裸で歩いている。そして、こうした階級の女はスカートだけを残している」

農村や漁村では男は褌一丁、女は腰巻一つだったわけです。

 江戸時代、銭湯は混浴が当たり前で、これは燃料費の節約が理由でした。老中・松平定信寛政の改革1787年〜1793年)で混浴は禁止となり、洗い場を仕切ったりしましたが、松平定信が失脚すると混浴が復活しました。水野忠邦天保の改革1830年〜1843年)でも混浴は禁止となり、忠邦が失脚すると混浴は復活しました。幕末には混浴ですから、外国人は驚くわけです。

 考えてみれば、それが「当たり前」ならなんということもなく、混浴でも女性に触れようとする不心得ものが横行することはなかったようです。現在、我々の羞恥心というのは明治維新以降の西洋的価値観、アダムとイヴの価値観が浸透して定着していったと考えられます。明治以降、混浴を禁止したのは西洋的価値観にあわせないと「野蛮人」と見られることを憂慮したためでしょう。

 明治になってフランス人の画家、漫画家ビゴー(明治15年 1882年来日)の画集「1897年の日本」(明治30年刊)を見ると一家が温泉で入浴している絵があります。舅、姑、夫、嫁、子供が一緒にお風呂に入っているのです。現代で義父に嫁が裸を見せるなど考えられませんが、明治にはいってもしばらくはこういう状態だったことがわかります。赤ん坊に授乳するのを人に見られるのもへっちゃらでした。これが避けられるようになったのは戦後になってからです。




参考文献
 講談社学術文庫シュリーマン旅行記ハインリッヒ・シュリーマン(著) / 石井和子(訳)
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(訳)
 講談社学術文庫「絵で見る幕末日本」エメェ アンベール(著) / 茂森唯士(訳)
 河出書房新社「江戸の庶民の朝から晩まで」歴史の謎を探る会(編)
 講談社学術文庫「ビゴーが見た明治日本」清水勲(著)

添付画像
 日下部 金兵衛の写真 女性が入浴しているところ http://www.baxleystamps.com/litho/meiji/060305.shtml より

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