日本開国へむけてオランダはどういうスタンスをとったか

唯一西洋の通商国オランダはどうしていたか。




 江戸時代、日本は鎖国をしていましたが、オランダ、清とは長崎で通商を行っていました。いってみればオランダは日本との通商を独占に近い形で行っていました。幕末日本が開国か、攘夷かに迫られたとき、オランダはどのようなスタンスをとったのでしょうか。

 19世紀になると捕鯨の船団が日本近海に現れるようになります。北海道方面にはロシア艦船のうごきがあり、アメリカは日本に興味を持っているという情報が入ってきます。こうなってくると遅かれ早かれ日本は開国をしなければならなくなります。ならばオランダはアメリカやその他の列強諸国に対して先導者としてリーダーシップを握り、優位性を確保しようとしました。天保14年(1844年)、オランダは国王の名前で江戸幕府へ開国すべきであるとの勧告書を渡しています。

 そしていよいよアメリカが日本へ艦隊を派遣するとなると、オランダは再び開国勧告を行うことにし、オランダの国益を守るために有能な人材を長崎へ派遣しました。ドンケル・クルチウスです。クルチウスはアメリカ艦隊の詳細情報を「別段風説書」に記載し、幕府に情報提供しました。

 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀沖にペリー提督率いるアメリカ艦隊がやってきてアメリカ合衆国大統領の国書を江戸幕府へ渡しました。そして、来年返事を聞きにくるといいます。幕府はクルチウスから助言を得ようと考えました。長崎奉行の大沢安宅、水野忠篤がクルチウスを訪ねました。

奉行「日本の患(うれい)を除くために穏やかな方法で対処すべしと、昨年の書簡にあるが、それはどのようなことか?」

クルチウス「外国では最近、航海が盛んになり、カリフォルニアより中国、あるいはロシアのカムチャッカなどへの航路上に日本があるため、在米大使からの報告によれば、アメリカは日本に石炭置き場を設けたいと考えている。諸国のうちアメリカが第一番に実現を望んでいる。
 その要望を一切無視して考慮しない場合、ついには戦争になりかねない。しかしながら、御国法をただちに改める訳にはいかないだろうから、制限を緩めることが日本の安全の計策だと考える」

奉行「日本の法度に抵触しない安全の策というのは、どのようなものか?」
クルチウス「外国の考えは、外国船にたいして日本人と同様の計らいが欲しいということだが、これは日本の国法に適わないから、オランダ人や中国人への対応と同様に、場所を限定すれば良い。
 清朝では、外国人を一切拒絶したために戦争となり、その結果、広東など五港を外国人が勝手に出入りできるものとした。このように戦争になっては面白からず、そうならないための安全の策を講じるように」

アヘン戦争で清国はイギリスに香港を取られました。戦争になれば同様の事態を予想せねばなりません。

奉行「もともと日本は小国で人口が多いため、土地の産物も国民が使うには不足しないが、外国に渡す余剰はない。外国と交易することで『自国の用を欠き』、百年もつはずのものも五十年で尽きてしまう・・・」
クルチウス「・・・近年の時勢の変化からみて、このままでは済まされまい。外国も、もともと御国と同様であったが、積年の練磨により、次第に国法を改め、富福強盛となったもので、エゲレス(イギリス)、フランス、ロシア、オランダなども同様である。一挙に国を開くのは無理だから試みに一港を開くのはいかがか」

奉行は通商について懸念を示しています。江戸時代、日本は国内だけで循環させる経済を築いていましたから、通商を行うと物資が不足する懸念があります。実際、この後の安政五カ国条約で通商が始まると国内の物資が不足し、インフレに陥りました。通商については奉行とクルチウスはさらに突っ込んだ意見を交換しており、幕府としては通商はなんとか避けたいという思いが強かったことがわかります。ちなみにこの後締結した日米和親条約の交渉中、日本側がしつこく注文をつけてくるのをペリーは辟易(へきえき)したようで、「日本遠征記」に「例えば『商品』という語を『物品』に換えるというような、どうでもいいような言い換えをいくつもさせられた」と書いています。「商品」だと通商を意味するので幕府が神経を尖らせていたことがわかります。

 こうしたオランダのスタンスは他国には比較的歓迎されたようでイギリスの公使オールコックは「日本を西洋の通商のために開放するように努力する一般の期待を勇気付けたのは、オランダ政府である」と好評価しています。




参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著) / 山口光朔(訳)

添付画像
 ヤン・ヘンドリク・ドンケル=クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius、1813年4月21日 - 1879年11月27日)(PD)

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