陽気で無邪気で好奇心旺盛な江戸日本人

世界で一番人間性豊かな民族だったのかもしれない。




 フランス海軍士官・スエンソンは慶応3年(1867年)に横浜にやってきました。日本人が汚らしい声で何やら言ってくるのが耳に触りました。

「そしてこちらも疑い深い目で周囲の色黒でずんぐりした連中を観察する。みんな頬被りをしていて、見えるのは黒く光るふたつの目だけ、日本人はこうして顔を知られないようにするのである。しかし、西洋人の疑い深さも、日本にごく短期間滞在するだけでたちまち霧消してしまう。これら変装した人々が、人の好いおとなしい職人たちで、頬被りの下には正直で善良な顔をしており、口汚いかけ声も、辺りの連中を笑わせようと時々外国人をだしにして発せられる単なるふざけ半分の気まぐれにすぎないことが、やがてわかってくるからである」

 その後、スエンソンは大阪に行き将軍に謁見し、将軍の前でフランスの音楽隊の演奏とともに行進して、演習を披露しました。そして淀川を船で下ったときのことです。

「われわれの楽隊の演奏を聴きつけた町の住民が河岸まで集まってきた。こう告白するのはつらいことだが、西洋人は、どんなに立派に威厳をもって振る舞っても、その姿は日本人の大笑いの種にしかならないことがだんだんにわかってきた。陽気な大阪っ子にさよならをいったのも、かれらの笑いの渦に巻き込まれながらだった」

江戸日本人は陽気でした。

 新聞記者 英国人ブラック(文久3年 1863年来日)
「彼ら(日本人)の無邪気、率直な親切、むきだしだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした」

 ペリー艦隊画家のハイネは下田で奉行が選んだという娘たちの接待を受けました。そこでハイネは日本人女性の美しさに驚き、女性が内気さやはにかみさを見せないので、女性たちの着物をいじり、そのうち、頬をさわったりつねったり、その他ふざけてみると親族、代官、武士たちは声を合わせて大爆笑しました。異人であるハイネの無邪気さがおかしくもあり、楽しんでもらえていることがうれしくもあったわけです。自分でも楽しみ人にも楽しんでもらう陽気な江戸日本人がみてとれます。

 イギリス外交官アーネスト・サトウ文久2年 1862年来日)は宇和島にいったとき、町を歩いていると黒山のような群衆についてこられます。
「どこへ行っても私たちのあとからついてきて、衣服に触ったり、いろいろな質問を発したりしたが、それらの態度は至って丁寧だった。私は、日本人に対する自分の気持ちが、いよいよあたたかなものになってゆくのを感じた」

 英国軍人ジェフソン・エルマースト(慶応2年 1866年来日)は連隊の制服が、交代した連隊の制服と異なっていたところ、日本人が興味を持ったことを記しています。
「この事実はすぐに無限の質問の種になった。次には彼らの手が出て来て、われわれは全員ぐるぐる廻される羽目になり、制服のあらゆる部分をこまかく調べられてしまった」

「彼らの好奇心を悪くとったりするのは、不当というものだったろう。仮にわれわれがそうしたとしても、彼らは人の良い笑い声によって、われわれの判断を即座に正常にもどしてくれるのだった」

 日本女性も当然同じで、メキシコの天文学者・ディアス・コバルビアス(明治7年 1874年来日)は横浜の商店で出会った娘に服や手袋、それに刀、時計を調べられ、しまいには髭まで触られました。それでも彼は「仕事柄外国人との接触の多い女性は、知性の面では精錬されていないが、しおらしくて子供のように無邪気である」と述べています。スイスの外交官アンベールは日本人女性から軍服についていたボタンが欲しいとせがまれ、しぶしぶ与えたといいます。

 江戸日本人は陽気で無邪気で好奇心旺盛で、それは外国人から見て決して不快なものではなく、あたたかみのあるものでした。アメリカ人社会学者のスーザン・ハンレーは「18世紀、19世紀の庶民に生まれるならば私は日本人に生まれたかった」と述べましたが、江戸日本人は今では考えられないくらい人間性が豊かだったようです。



参考文献
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」エドゥアルド・スエンソン(著) / 長島要一(訳)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新アーネスト・サトウ(著) / 坂田精一(訳)
 双葉社「江戸明治 遠き日の面影」


添付画像
 歌川広重 江戸百景 両国橋大川ばた(PD)

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