江戸時代最後の宣教師シドッティ、天に召される

シドッティの情熱は新井白石の「西洋紀聞」に残された。




 江戸時代最後の伴天連(バテレン)、イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。シドッティは捉えられて長崎で尋問を受けます。そして処刑もしくは拷問を受けて棄教させられる運命にありましたが、これに大いに興味を持ち、江戸に呼び寄せたのが将軍家最高顧問・新井白石です。白石とシドッティは江戸の切支丹屋敷で4回にわたり面談し、その後も白石は切支丹屋敷に出向いていろいろな質問をしました。

 白石のシドッティ評
「凡そ其人、博聞強記にして、彼方多学の人と聞えて、天文地理の事に至りては、企及ぶべしとも覚えず」

 シドッティの白石評
「五百年の間に一人ほど、世界の中に此の如き人の生れ出づるものなり」

 白石はキリストを仏教と似たところがあり、一宗教と位置づけ、シドッティをローマの使臣としました。その処分について3案を提示します。上策「国外追放」中策「拘禁継続」下策「処刑」です。

 羅馬人処置献議・天主教大意
「かれ蛮夷の俗に生れそだつ、其習其性となり、其法の邪なるをしらずして、其国の主と其法の師との命をうけて、身をすていのちをかへりみず、六十余歳の老婆并(ならびに)年老たる姉と兄とにいきながらわかれて、万里の外に使として六年がうち険阻艱難(けんそかんなん)をへてこゝに来れる事、其志のごときは尤あはれむべし。君のために、師のために、一旦に命をすつる事は有べし。六年の月日、万里の波濤をしのぎしは難きに似たり。臣又、仰を蒙(こう)り、かれと覿面(てきめん)する事己に二度、其人番夷にして其ムシ番夷なれば、道徳のごときは論ずるに及ばず。されど其志の堅きありさまをみるに、かれがために心を動かさゞる事あたはず。しかるを、我国法を守りてこれを誅せられん事は、其罪に非ざるに似て古先聖王の道に遠かるべし」

 本来禁教を持ち込んだのですから、シドッティは罪人ですが、白石は「かれ」と敬意をもって表現しています。彼がキリシタンであるのは生まれた国の習わしであって、命を顧みず、親兄弟と別れて、6年の困難を乗り越えて日本にやってきた志は立派だと述べています。その志の堅さに心を動かさない人はいない、そして本人の罪ではないのに国法だからといって処刑してしまうのは古来より統治者が行うべきことではない、と述べています。

 結局のところ幕閣が選んだのは中策「拘禁継続」でした。この処置を受け取ったシドッティは委細承知、いたわりの儀は有難く奉るとしながら「宗門無御赦免命計御助被置候儀は、差て御礼可申上様も無御座候由」と、宗門の許しなく命ばかり助けてもらってもさしも有難く思わない、と述べています。布教か殉教かの二択しか持ち合わせていなかったシドッティにとっては辛い処置だったでしょう。

 シドッティは切支丹屋敷に拘禁継続となり、その身の回りの世話は長助と"はる"という老夫婦が行いました。この二人は切支丹の子孫か、棄教したものらしく、幼い時から切支丹屋敷におり、過去ジュセッペ・キャラ神父らの身の回りの世話なども行っていました。

 白石は処置が出たのちにも非公式に切支丹屋敷を訪れ、シドッティに会っていました。また、白石はオランダ側にさりげなくシドッティ存命の情報を流します。これは当たりローマ教皇の耳にはいりました。教皇庁は動き出しました。シドッティが所属していた布教聖省はシドッティ宛てに手紙を送ります。これには9名の宣教師を日本に派遣し、シドッティ配下に置くというものでした。しかし、この手紙はシドッティに届きませんでした。

 シドッティの拘禁から4年後の正徳2年(1712年)10月、将軍家宣が病死しました。これとともに新井白石は政治の中枢から外れることになります。そして白石の足は切支丹屋敷からも遠のきました。
 正徳3年(1713年)の冬、長助・はる夫婦は奉行の前に現れ、切支丹の洗礼を受けたことを告白しました。洗礼を授けたのはシドッティでした。シドッティに召喚命令が出されましたが、シドッティは「誰の命令か」と反抗的態度に出ます。作事奉行・柳沢備後守は激怒し、15名の武士をつかわして縛り上げて連れてこさせました。そして地下牢への禁固が申し渡されました。もはや新井白石には権力はなく、シドッティを救うものはいませんでした。そして正徳4年(1714年)10月21日、衰弱したシドッティは天に召されました。

 シドッティの遺骸は切支丹屋敷の裏門脇に葬られました。一本の榎が墓標代わりに植えられました。シドッティの横には長助と"はる"の遺骸が埋められ、そこには木蓮の木が二本植えられました。三本の木は寄り添うように成長し、やがて大木となった榎はシドッティの名をとって「ジョアン榎」と人々に呼ばれるようになりました。そして明治の足音が聞こえるまで日本に異国の伴天連が来ることはありませんでした。



参考文献
 新人物往来社「最後の伴天連シドッティ」古井智子(著)
 平凡社「西洋紀聞」新井白石(著) / 宮崎道生(校注)

添付画像
 東京都文京区小日向 切支丹屋敷跡 Auth:多摩に暇人

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