江戸時代最後の宣教師、シドッティが屋久島にやってきた

日本人の格好をして現れた宣教師。




 宝永5年(1708年)8月のある日、屋久島の恋泊村の藤兵衛は炭焼きの材料にする木を伐りに島内の松下という所へ行きました。すると松林の中から人声がするので、見ると長身の男がいます。頭は月代(さかやき)にそり、羽織袴を着ており、腰にはひと振り日本刀を差しています。男は穏やかに藤兵衛に話しかけ、手招きしました。しかし、「言葉通不」でした。

 サムライ姿の男はイタリア人のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ。彼は1622年にグレゴリウス15世がたちあげた布教聖省に所属する司祭でした。スコラ哲学、地理学、天文学、科学、人文学など多方面の学問をおさめるという優秀な頭脳をもっていました。そして日本のことを知り、将軍に布教の許可をもらうため日本行きを決意します。日本ではキリスト教を禁止し、改宗しない宣教師はことごとく処刑されましたから、殉教の覚悟を持っていました。
 シドッティは一旦、マニラに滞在し、日本の風俗や歴史や地理を学びました。マニラには鎖国前にいた日本人の子孫や切支丹(キリシタン)で国を追われたものたちの子孫、漁をしていて漂着した日本人がいましたので、その日本人らから日本語を学びました。そして日本の羽織袴、刀を手に入れ、月代までして単身日本に上陸してきたのです。

 シドッティは髪も目も黒かったようですが、身長六尺(約180センチ)という長身です。当時ではかなりの長身です。それだけでも異様ですし、月代していても羽織袴を身に着けていても、どっからどう見ても「異国人と見へ候」です。シドッティはマニラで日本語を学びましたが、どこの方言を学んだのか、しかも、ヨーロッパ訛りでは屋久島で通じるはずがありません。驚いた藤兵衛は村人に助けを求めました。

 シドッティが日本人の姿恰好していたということは気づかれないように日本に潜入しようと見ることができますが、どうもそうではないようです。

 長崎での取り調べ「羅馬人欸状(ろうまじんあいじょう)」
「異国の姿風俗にて罷越(まかりこす)候ハゞ日本人わらい可申と存、呂宋国(ルソン)におゐて日本人着し物・日本拵之刀調申候。さかやきハ船中にてそり申候。日本人え曾て頼不申候。尤其所々之風俗をまなび不申候得者ば、其所之者笑ひ申候に付、北京え参候同門の者も唐之風俗をまなび候て罷越候由」

 シドッティは異国の地に行くにはその地の風俗を学んで、習わねば笑われる。同じ宣教師も北京に行ったが、そうしている、と述べています。

 立派な心がけを持ったシドッティでしたが、かえって異人の異様さが増す結果となってしまいました。さて藤兵衛ですが、村へ帰って安兵衛をつかまえて、この事件を近隣の村に伝えるよう申し渡すと、途中で出会った隣村の五次右衛門と喜右衛門を伴って再び松下にいきました。そしてシドッティを連れて村へ戻ります。シドッティはずいぶんと疲れた様子でした。

 長崎注進邏馬人事(ながさきちゅうしんろうまじんこと)
「草臥(くたびれ)候躰ニ見受候故差寄、喜右衛門事ハ右之者(シドッティ)所持之大袋を持、五次右門ハ刀を持、藤兵衛は右之者(シドッティ)之手を添、藤兵衛所迄召連候処・・・」

村のものはシドッティは害はないとみて、疲れた様子のシドッティの荷物を持ち、刀を持ってやり、手を貸してやり、藤兵衛の家に連れていきました。藤兵衛の家に五右衛門という縁者がやってきて、食べ物の準備を手伝い、シドッティに差し出しました。シドッティは、村人の心遣いに感謝しながら食事をとり、礼にとお金を渡しました。

「丸黄色之かね貳つかくニ有之かね壹つくれ候へ共、則相返申候」

丸い金貨1つと四角い金貨2つでしたが、村人は受け取りませんでした。劇的な出会い、そして言葉は通じませんでしたが、短時間で村人はシドッティの謙虚さを感じ取り、シドッティは金銭で動かない村人の誇りの高さに心を打たれたのでした。



参考文献
 新人物往来社「最後の伴天連シドッティ」古井智子(著)
 平凡社「西洋紀聞」新井白石(著) / 宮崎道生(校注)

添付画像
 屋久島三岳 Auth:As6022014(CC)

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