江戸時代最後の宣教師シドッティ、長崎へ行く

シドッティ曰く、オランダ人は「タバカリ!」




 イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。キリスト教は日本では禁教ですから、処刑されるかもしれません。命がけの日本への渡航でした。

 シドッティは薩摩藩によって拘束され、長崎へ護送されました。シドッティは行き先が長崎だと知ると拒絶の姿勢を見せるようになりました。シドッティの目的は将軍に会って布教の許可をもらうことであり、オランダ人が独占的に居住している長崎では断じてなかったからです。シドッティはカトリックですが、オランダ人はプロテスタントです。この点でも長崎行きは許しがたいものでした。しかし、異国船や漂流民の処置は長崎奉行が取り仕切っていたので、長崎を通過しないで江戸へ行くことは無理でした。

 宝永5年11月9日(1708年12月20日)、シドッティは長崎に到着しました。3名のオランダ通詞(通訳)が出迎えました。そしてオランダ人にも出頭が促され、奉行所で本格的尋問が行われることになりました。ところが、シドッティはオランダ人を極度に嫌い、面会を固く拒絶したのです。オランダ人は金もうけだけが目的で、嘘つきで、ローマの信仰に対する反逆者である、というのがシドッティのいう理由です。シドッティはオランダという言葉が出る度に「タバカリ!(謀り)」と吐き捨てるように言い放ちました。

 長崎での取り調べ「羅馬人欸状(ろうまじんあいじょう)」
「異国人殊之外阿蘭陀人(オランダ人)を嫌候体に相見候に付、不斗阿蘭陀人に出合候て相さからひ申、口も滞可申と存候に付、かぴたん阿蘭陀人を物陰に差置為承候得共、異国人日本口ヲまじへ申候に付・・・」

偶然でもオランダ人に出会ったりしたものなら、尋問しても答えが滞りがちになりました。

 出島蘭館日誌日本語訳
「大通詞源右衛門は、予ねて用意してあった二十四箇条の問を掲げて問答を試みた。成程色々の国語を取り混ぜ、就中日本語らしいものを最も多く用ひ、同じことを幾度も繰り返すのだけれども、諒解し得るのは、僅か一小部分にしか過ぎぬ。其中には蘭人を非難するらしい語気もあり、バカラなる言葉は特に角だつて聞こえた」

 シドッティは来日する前、マニラに滞在し、そこでキリスト教の禁止により国を追われてマニラにきた日本人の子孫や漂流日本人から日本語を学びましたが、代を重ねたせいか、どうも怪しい日本語であったので、日本にきて全く言葉が通じませんでした。オランダ語もわからないので、尋問がはかどらないばかりか、オランダ人を毛嫌いしていました。結局、オランダ人は姿を隠して尋問に出席することになりました。

 シドッティはラテン語ができたので、大通詞の今村源右衛門はラテン語ができるオランダのアドリアン・ダウに9日間の特訓をうけ、再び二十四箇条の問答を行いました。シドッティを説得してアドリアン・ダウも同席させました。こうして「羅馬人欸状(ろうまじんあいじょう)」という調書が作成され、幕府に送られることになりました。

一、いたりや国之内ろうま之者に而御座候。名はよわんばってすたしろうてと申し候。歳四拾壹に罷成申候。
一、私儀ろうま切支丹宗門之師仕候出家に而御座候。
一、私国元に母存命に居申候。兄弟も御座候。私同門之出家に而御座候。妹も御座候。父は死申候。尤私妻子は無御座候。
・・・

 さて、シドッティの運命はどうなるか。幕府が元和元年(1615年)に切支丹追放令を発布して以来、75名の外国人宣教師が日本に潜入しましたが、そのほとんどはこの長崎で殉教、あるいは拷問の果てに棄教しました。最後まで生き延びた神父はジュセッペ・キャラ神父(日本名、岡本三右衛門 棄教)で貞享2年(1685年)に死去しています。それから20年余りの間、日本には切支丹の跡さえありません。シドッティはどうなるか。「羅馬人欸状」が江戸に送られて間もなくの年明け1月9日に将軍・徳川綱吉が死去します。ここで急展開。跡を継いだのが家宣で、家宣の絶大な信頼を得る旗本であり政治家、学者でもある新井白石(あらいはくせき)が将軍家最高顧問として権力を掌握したのです。白石はシドッティに大いに興味を持ち、江戸に呼び寄せました。そしてシドッティと問答を行い、その内容を「西洋記聞」に記したのです。「西洋記聞」は19世紀に入り広く読まれるようになり鎖国下において日本人の世界認識に大いに役に立ちました。



参考文献
 新人物往来社「最後の伴天連シドッティ」古井智子(著)
 平凡社「西洋紀聞」新井白石(著) / 宮崎道生(校注)

添付画像
 長崎港図に描かれた出島。江戸時代の銅版画(PD)

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