新井白石 VS ジョヴァンニ・シドッティ

シドッティに興味津津の新井白石




 イタリア人司祭ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは日本でキリスト教布教の許可を得るため、宝永5年(1708年)8月に単身で屋久島へ上陸しました。当時、キリスト教は日本では禁教ですから、処刑されるかもしれません。命がけの日本への渡航でした。シドッティは長崎で尋問を受け、その調書は「羅馬人欸状(ろうまじんあいじょう)」にしたためられ、幕府に送られました。ちょうど徳川綱吉が死去し、その跡を家宣が継ぎましたが、家宣の絶大な信頼を得ていたのが新井白石(あらいはくせき)で、将軍家最高顧問として権力を掌握しました。白石はシドッティに大いに興味を持ち、江戸に呼び寄せました。宝永6年9月25日のことでした。

 尋問は小日向の切支丹屋敷で行われました。ここは以前、切支丹が監禁されていましたが、もう彼らはいません。白石ほか、大目付の横田備中守、作事奉行の柳沢豊後守が並び、ラテン語の通訳は大通詞(通訳のトップ)の今村源右衛門ら数名です。座敷に居る白石に相対する形で白洲にシドッティが腰かけました。

 新井白石「西洋紀聞」
「其たけ高き事、六尺にははるかに過ぬべし。普通の人は、其肩にも及ばず、頭かぶろ(童髪に近い髪形 おかっぱ風)にして、髪黒く、眼ふかく、鼻高し。身には茶褐色なる袖細の綿入れし、我国の紬の服せり。これは薩州の国主のあたへし所也といふ」

 身長は180センチ。来日時は日本人と同じように月代(さかやき 前からてっぺんを剃る)にしていましたが、伸びてしまっておかっぱ風になっていました。外国人特有の彫りの深い顔を白石は記しています。シドッティは薩摩藩主よりもらった茶褐色のつむぎの綿入れを着ていました。これだけでは寒いだろうと奉行が衣を与えて重ねて着させようと通詞を通してシドッティに提示していましたが、シドッティは受け入れません。白石はその理由をシドッティに尋ねます。そしてシドッティはこう答えます。

「其教戒に、其法を受けざる人の物、うくる事なきによれり。されど、飲食の物ごときは、其国命を達せむほどの性命のためなれば、日々廩粟(りんぞく)を費やす事、国恩を荷ふ事すでに重し、いかで衣服の物まで給りて、我禁戒にそむくべき」

 簡単に言うと必要最小限のもの以外はいらない、と毅然とした態度をとったわけです。白石はこのときは何もいいませんでしたが、後にガツンと一撃を入れることになります。

 尋問はラテン語や日本語を交えて行われました。シドッティは家族のこと、国のこと、日本に来た経緯などを話します。シドッティは奉行が用事で立つたびに起立して礼をする礼儀正しさをみせました。二時間もすると通訳を通さずに、白石と直接会話するようになります。シドッティは自分の影を見て指を折って数え、今日は何月何日の何刻と答えるなど博学ぶりをみせました。白石はすっかり感心します。そして日没も近くなり尋問を打ち切って白石が席をたとうとするとシドッティはあわてて言いました。

「某こゝに来りし事は、我教を伝へまいらせて、いかにも此土の人をも利し、世を済(すく)はむといふにあり。それに、某が来りしより、人々をはじめて、多くの人をわづらはし候事、誠に本意にあらず・・・人々日夜のさかひもなく、某を守り居給ふを、見るに忍びず。かく守り居給ふは、某もしにげさる事ありなむがためぞ候らむ・・・仰によりて守らせ給はむ上は、其守り怠り給ふべき事然るべからず。昼はいかにも候へかし、夜る夜るは、手枷足枷をも入れられて、獄中につなぎ置かれ、人々をば夜を心やすくゐねられ候や」

 自分はこの国の人をも利して世を救うためにきたのに、多くの人を煩わせてしまっているのは本意ではなく、日夜の境なく、自分を警備されている方を見るのには忍びないというのです。夜は手枷足枷されてもいいから奉行、警護の人々が夜は安心して寝てほしいという要望です。なんと思いやりのあるシドッティかな、と思いきや白石は「いつはり(偽り)にてあるなれ」と一刀両断。

「彼等が汝を守るも、奉行の人々の命を重んじぬるが故也。又奉行の人々もおほやけ(公)の仰をうけて、汝を守らせ給ひぬれば、汝がいかにも事故なからむ事をおもひ給うが故に、衣うすく肌寒からむ事をうれへて、衣給はらむとのたまう事、度々におよびぬ。もし今汝が申す所のまことならむには、などか此人々のうれへおもひ給ふ所やす(安)むじまいらせざらむ」

 奉行、警護のものを気遣って夜は安心して寝て欲しいというのなら、シドッティの身を心配して用意した衣の着用を拒否したのと矛盾があり、奉行の意を汲んで衣を着用し、安心させてやるべきではないか、と言っているのです。これにはシドッティも白旗をあげ、「よくこそのたまひ給りつれ」と述べ、衣は木綿の安いものにしてくれ、と快諾しました。これは単に白石が「俺を甘く見るなよ」とシドッティをやっつけたというより、シドッティが気に入り、その身を心配し、衣を着用させる意図があったものと思われます。




参考文献
 新人物往来社「最後の伴天連シドッティ」古井智子(著)
 平凡社「西洋紀聞」新井白石(著) / 宮崎道生(校注)
添付画像
 新井白石肖像(PD)

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