鎖国中の江戸日本は外国人に興味津津

江戸日本は外国事情に通じていた。




 江戸時代は鎖国していましたから、国内には外国人はオランダ人、支那人だけ長崎の出島にしかいませんでした。オランダ人の商館長は「カピタン」と呼ばれていました。カピタンは貿易業務の閉期に江戸へ参府することが義務付けられ、配下を引き連れて江戸にやってきて、長崎屋に宿泊し、登城して将軍に謁見していました。

 8代将軍の徳川吉宗(在位:享保元年(1716年)8月13日 - 延享2年(1745年)9月25日)は西洋文化に特に思い入れが激しい将軍でした。オランダ人の将軍謁見はわずか1日ですから、聞きたいことが山ほどあってもとてもその場ではかないません。かといって、自ら長崎屋に赴くわけにはいきませんから、自分の側近に命じて、様々な質問をカピタンにぶつけます。その内容は西洋の刑罰内容や裁判基準から国家体制、採れる農作物の種類、果てはバターとは何かまで多種多様であり、将軍の使者が長崎屋を午後7時頃に訪問して出てきたのは午前2時だったといいます。さすがにカピタンも「自分は単なる商人だから」と回答に窮することもあったといいます。

 オランダ商館付きの医師カール・ツンベリーもまた、江戸にやってきて質問攻めにあいました(安永5年 1776年 将軍は家治の時代)。江戸に到着すると藩主が二人だけの供を連れてこっそり宿舎に訪ねてきたのです。

 江戸参府随行記 カール・ツンベリー
「十分に時間をとって、夜遅くまでいろいろな事柄について我々と話し合った。この人は礼儀正しくかつ非常に友好的であったが、同様にまた大変好奇心に富んでいるようであった。我々が携帯し使用している家具の全てを、非常に注意深く極めて入念に眺めた。そして話題はたんに日本に関することだけでなく、ヨーロッパのいろいろな事柄にも及んだ」

 町人も興味津津で宿舎の周辺に集まり、窓からオランダ人が顔を出さないかみており、子供などは向かい側の家の塀によじ登って覗いたといいます。

 ツンベリーは医師ですので、日本の医師が西洋医学の指南を受けようと次々と訪問してきてます。岡田養仙、栗崎道芭、天野良順、久志本常周。桂川甫周という将軍の侍医と友人の中川淳庵は毎日訪ねたといいます。
 そして将軍謁見の日がやってきました。登城し、客間で待っていると、いろんな幕臣たちがツンベリーらを見に来て話をしてきます。そして何人かの藩主までやってきて、扇子に何か書いてくれとせがんでくるのです。
 やがてカピタンが将軍に謁見します。謁見が終わって戻ってくると再び幕臣たちの質問攻めにあいます。するととうとう将軍家治までこっそりやってきてオランダ人やその着ている衣服を観察するということまでおこりました。

 実はこうやって江戸幕府は世界に関する知識を収集していたのです。直接オランダ人と話をするだけでなく、幕府は「オランダ風説書」というものをカピタンに提出させていました。

 阿蘭陀風説書 宝永6年(1709)風説書其二
「阿蘭陀国の近所ブラアバンと申国の内、オウデナアルと申所、阿蘭陀国より支配仕候、然る処去年五月頃、フランス人方より四万六千之人数を差向申候に付、阿蘭陀方よりも多勢を出し、三日之間戦ひ、フランス人一万程討ころし、一万六千人生捕、相残る人数散々落失申候・・・」

 スペイン継承戦争と呼ばれるもので、イギリス・オランダ・オーストリアの連合軍が、アウデナールデの戦いでフランス軍を破ったことを伝えています。江戸幕府鎖国しながらも世界の情勢に通じていたわけです。
 19世紀になると外国船が度々日本近海に現れ、嘉永6年(1853年)アメリカのペリー提督が現れ、日本は開国の道を歩むことになりますが、幕府は世界情勢を認識しつつ対外政策を決定していきました。幕府はアヘン戦争も知っていましたし、オランダから開国勧告もうけていました。開国は日本が避けて通れない道であると早い時期から認識していったのです。



参考文献
 双葉社「江戸 明治 遠き日の面影」
 平凡社「江戸参府随行記」C・P・ツュンベリー(著)/ 高橋文(訳)
 平凡社「西洋紀聞」新井白石(著) / 宮崎道生(訳注)
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔 (訳)
添付画像
 カール・ツンベリー(PD)

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