日本女性は美しかったが外国人はお歯黒が苦手だった

日本女性は日本の風景に溶け込んでいた。




 幕末に来日した外国人は日本女性の美しさを称賛しています。

 イギリス公使オールコック (安政6年 1859年来日)
「女は自然によって与えられた肌に満足しているようだ。その肌は、多種多様な色合いのオリーブ色で、ときたまほとんどまっ白なのも見かける。わたしは、わたしの国の夫人たちに劣らぬほど美しく、健康そうな血色にほおを赤く染めた多くの婦人を見た」

 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)
「日本女性は男たちの醜さから程遠い。新鮮で色白、赤みを帯びた肌、豊かで黒い髪、愁(うれ)いをふくんだ黒い瞳と生き生きとした顔は、もう美人のそれである。少なくとも中国人や安南(ベトナム)人など近隣諸国の女に比べたら美人である。背は低いが体格はよく、首から肩、胸にかけての部分は彫刻家のモデルになれるほどだ。また手足の形が良く、びっくりするほど小さい。彼女たちを見ていると、愛欲過剰な日本人の男の気持ちがわかり、寛容になってしまう」

 単なる容姿に魅せられただけでなく、その物腰にも魅せられました。ドイツのオイレンベルク一団のベルクは王子を訪ね、植木屋で休憩をとりましたところその家の娘に魅せられてしまいました。
「彼女は稀に見る品位と愛嬌のある女性で、われわれが来た時は、質素な普段着で園芸の仕事をしていたが、仕事をやめてわれわれにお茶を出してくれた。控えめで親切な物腰に、われわれの一行はみな魅せられてしまった」

 同使節団のブラントは「ムスメは日本の風景になくてはならないもの」「日本の風景の点景となり、生命と光彩を添える」とまでいい、「MUSUME」は英語になりフランス語にまでなりました。

 スイス領事リンダウ(文久3年 1863年来日)
「娘さんの歯は世界中で一番美しいし、目は優しく、眉は黒く弓型になっている。綺麗な卵型の顔にすらっとした背丈、しとやかな体型、素朴でときには著しく上品な物腰が混じり合っている。この娘さんたちが深々とお辞儀をし、優しい笑みを浮かべて近づいてくるのは見ものである。追い越していく時、『まっぴらごめんなさい』と言うのは聞くに値する」

 日本女性がすべて美人であるはずがなく、彼らがいうのは日本女性の物腰や気品や明るさが日本の風景に溶け込んでいることを言っていると思われます。次のスエンソンの観察はその場面がイメージしやすいでしょう。

「着飾った小柄な娘たちは、通りを行く時ははにかんで頬を赤らめ、穴にでも入って隠れてしまいたいといいたげにちょこちょこ歩いていく。高下駄をはいているのは通りのどろで足を汚さないためである。一歩運ぶ事に膝と膝をすり合わせるので、よろめきはしないかと見ている方が心配になる。大きく結い上げた髪が重たげで、身体の均衡を崩してひっくり返りはしないかと気が気でなくなる。けれどもそんな心配をよそにして娘たちは、頬を染めて高らかに笑いつつ、よろめきながら先を行く。そうして無事に港へたどり着くことができて自分でもびっくりしたような顔をしているが、日本の娘がどんな風に街を横切っていくかをはじめて目撃した西洋人の驚きも一通りではなかった」

 ただ、外国人にとって既婚女性のお歯黒は苦手でした。その当時はまだ女性は結婚したらお歯黒をしていたのです。オールコック「歯に黒いニスのようなものを塗り直して眉毛をすっかりむしりとってしまったときには、日本の婦人はたしかにあらゆる女性のうちで、人工的なみにくさの点で比類のないほど抜きん出ている」とまで言っています。イギリスの外交官アーネスト・サトウは旦那のついた芸者を見て「彼女らの容貌は黒く染めた歯と鉛の白粉で台無しになっていると思った」と語り、スエンソンは「唇を開いて気持ちの悪い口の中を見せられるたびに、思わず後ずさりしてしまうほどだ」と述べています。外国人に不評だったお歯黒はやはり明治に入り禁止令が出され、大正時代になるとほぼ完全になくなりました。



参考文献
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)
 岩波文庫「一外交官の見た明治維新アーネスト・サトウ(著) / 坂田精一(訳)
 平凡社「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
添付画像
 日下部金兵衛の噂好きの女性(PD)

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