失われていったユートピア、江戸文明

愛しき純ニッポン。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、黒船来襲。ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊が浦賀沖に現れます。以降、江戸幕府は開国の道を歩むことになります。嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約締結、安政5年(1858年)にアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5ヵ国それぞれと修好通商条約を結びました。

 それまで日本は日本国内だけで物とお金を循環させる高度な循環型社会、リサイクル社会を築いていました。しかし、それは開国と同時に崩れていきました。すべての物資は受給一致していましたが、貿易によって海外に流れ出したのです。また金銀交換比率の違いにより、日本の金が大量に海外に流出してしまいました。庶民に襲ってきたのは物資不足、激しいインフレでした。

 イギリス公使オールコックは著書「大君の都」の中で、幕府の輸出制限における交渉で外国掛閣老首座が次のように話したことを書き留めています。
「われわれは、何世紀ものあいだ他の世界から孤立していたし、われわれじしんのために必要なものはすべて生産してきた。われわれがしたのはただそれだけで、それ以上のことはなにもしなかった。ところが、いまやとつじょとして、われわれは五つのヨーロッパ諸国と外交関係をもつにいたった。そして、国内の消費物資のうちの特定のものにたいする需要が増大した。しかもそれは、それ相応の物価騰貴をともなっている。このようにして、われわれじしんは国家的な一大災厄に見まわれている」

「われわれとしては、条約にたいして誠実でありたい。といって、わが国が一般的貧困におびやかされるのを黙ったまま見ているわけにもゆかない。明らかに必要なのは時である」

「あなたがたは、あまりにもだしぬけにこれらの厖大(ぼうだい)な需要と、貪欲そのもののような西洋との通商とをもってわれわれに襲いかかった。われわれは、あらゆる点で譲歩し、すべての制限を撤廃するように強要されている。つまり、一言でいえば、あなたがたのために、一世紀もかかる仕事を即座になしとげるようにせきたてられている」

「一般消費物資の生糸、国民に欠くべからざる日常の食料品のひとつである油、さらに日常品としてひじょうに必要な木ろうなどが日本人がみずから消費に当てるために購入するのに困難を感じるほど値上がりしている」
「外国貿易は、われわれに必要なわれわれじしんのつくった品物を、少数者を富ますために道具たらしめ、多数の人々にとって高価なものたらしめる」

 外国貿易は儲かるから、商人は物資を外国に売り始めました。その分、循環型社会の受給一致が崩れ物資が不足し、物価が高騰して庶民を苦しめたのです。

 オールコックは市場原理を説き、需要制限は生産への刺激を取り去ることになる、など主張します。そして近代的科学を応用して鉱山や炭鉱などの開発を促進し、それを活用して利益をはかるよう提案しました。すると外国掛閣老首座は次のように述べました。

「いにしえの著述家たちは、金属を人体の骨やたえず再生される血・肉・皮膚の毛にたいするそのさまざまな貢献と比較した − 金属は、決してこの過程をたどらない」

江戸日本人は知っており、自制していたのです。資源は再生されないし、資源を無分別に採掘すればやがて枯渇し、破綻が来ると。

 開国と共に究極の循環型社会は崩れました。農耕民族である日本民族は「分かち合う文化」でしたが、西洋資本主義の「奪い合う文化」に飲み込まれていきます。森羅万象に対して、慈しみや感謝の念をもって接し、「物」を大切にしてきた江戸文明は終わりを告げていきました。

 アメリカ公使タウンゼント・ハリス 安政3年(1856年)来日
「衣食住に関するかぎり完璧にみえるひとつの生存システムを、ヨーロッパ文明とその異質な信条が破壊し、ともかくも初めのうちはそれに替えるものを提供しない場合、悲惨と革命の長い過程が間違いなく続くだろうことに、愛情にみちた当然の懸念を表明」

 アメリ総領事館通訳ヘンリー・ヒュースケン 安政3年(1856年)来日
「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩はほんとうに進歩なのか?この文明はほんとうにお前のための文明なのか?・・・おお神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならないのである」

 長崎海軍伝習隊長カッテンディーケ 安政6年(1859年)
「私は心の中でどうか今一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだとひそかに希(こいねが)った。しかし同時に私はまた、日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに心も自然に暗くなった」

 イギリス外交官ローレンス・オリファント 安政5年(1858年)江戸入りしたときの感想
「私の思うところ、ヨーロッパのどの国民より高い教養を持っているこの平和な国民に、なぜ我々の教養や宗教を押し付けなければならないのだ。私は痛恨の念を持って、我々侵略者が、この国と国民にもたらす結果を思わずにいられない。時が経てばわかるだろう」

 人類史上最もユートピアに近かった江戸文明は崩壊をはじめました。あれから百五十余年の月日が流れています。私は日本人として江戸文明に愛おしさを感じ、失われたものの大きさを感じざるを得ないのです。



参考文献
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔 (訳)
 平凡社ライブラリー「逝きし世の面影」渡辺京二(著)
 岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)

添付画像
 歌川広重の四ッ谷内藤新宿(PD)
 外国人は馬が「藁のサンダル」を履いていると観察した。日本人は循環の過程を踏まない鉄(蹄鉄)を使わず、循環の過程を経る藁を使用していた。

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