日米和親条約締結

戦争を回避し、無事条約締結。




 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊(東インド艦隊)が来航しました。このときは国書を手渡しただけでしたが、翌、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて再び来航し、条約締結を求めました。

 日本側は戦争をすれば敗北は必至であるから、戦争を避け、交渉によって交易を断るということを柱として交渉に臨みました。ペリーはアメリカ政府より先制攻撃は禁止する通達はうけていたものの「目的達成のためには、武力の行使にしり込みすることはない」(上院報告書)というスタンスで交渉に臨みました。いわゆる砲艦外交です。またペリーは応対の仕方も緩急をつけるなど工夫しています。

 ペリー提督日本遠征記
「実際、私の見るところでは、この非常に賢明かつ狡猾な人々との交渉にあたっては、異国の住民 − 文明化された者も未開の者もいたが、 − との交流を通じて得た、けっして乏しいとはいえない経験を活用することが大切だ。そしてその経験から判断するなら、形式を重んずる人々に対しては、あらゆる儀礼を退けるか、逆にヘロデ王(※1)にもまさる尊大さとものものしさを装うことが必要なのである。
 この両極端を使い分けるにあたって、うまく演出できるときは尊大さを示し、私たちの慣行にそぐわないときはそうした尊大さを排するという方法をとってきた」

 日米交渉は3月8日(西暦)より横浜で始められました。日本側は林大学頭を筆頭に町奉行・井戸対馬守、目付・鵜殿、儒者・松崎満太郎です。ペリーは日誌にそれぞれの人物評を書いています。

「第一の委員は林大学頭で55歳ぐらい。立派な風采で中肉中背、立ちふるまいは謹厳で控えめである。重要な問題はすべて彼に任されていたから、最高責任者と目されていたのは間違いない。その風貌は、ボルチモアのレヴァディ・ジョンソ氏(※2)に似ていなくもなかった」

「二人目は井戸対馬守で、年齢は50歳ぐらい、長身でかなり太っている。感じの良い顔立ちで、現在のロンドン駐在アメリカ公使ブキャナン氏(※3)に少し似ている」

 日米交渉は3月17日、24日、28日、31日の計5回と複数の下打ち合わせが行われました。林大学頭の整然とした理論展開により「通商」を回避することができました。また、ペリー側の挑発にも隠忍自重し、戦争も回避することができました。

 交渉の期間中、ペリー側より数々の品が贈呈されています。中でも蒸気機関車の1/4モデルは実際に蒸気機関で動くもので、日本側を驚かせました。日本側からは米や酒などを贈呈し、米俵の運搬には力士を使いました。力持ちをアメリカ側に見せつけようという目論見です。ペリー艦隊にも屈強の水兵がおり、巨体を見せつけられて、ひとつ勝負をしようではないか、という声もありましたが、力士の怪力ぶりをみて皆がシュンとなったといいます。

 3月27日(西暦)にはポータハン号で饗応(きょうおう)が模様され、豪華な西洋料理と酒が出されました。

 ペリー提督日本遠征記
「主席委員の林は、ほとんどすべての料理に手をつけたものの、食事も酒も控えめだったが、ほかの委員たちは健啖家(けんたんか)ぶりを発揮した。松崎は酔ってすっかりご機嫌になっていたし、ほかの三人も陽気な酒だった」

 この催しは随分と日米両国でドンチャン騒ぎになり、松崎満太郎はペリーに抱きついたりしました。

 ペリー提督日本遠征記
「松崎などは、私の首に両腕をまわして、『ニッポンもアメリカも心は一つ』という意味の言葉をくどくどと繰り返していた。こんなふうに酔っ払って抱きつかれたせいで、私のおろしたての肩章は台無しになってしまった」
「翌日、条約調印前の最後の詰めのために条約館で会ったとき、この老紳士は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。艦上で羽目を外したのがきっと決まり悪かったのだろう」

ペリーの松崎満太郎評は「この人物については、わが国のだれかれとひき比べるのはやめておく(とても美男子とはいえないので)。ただ、そっくりな人物を知っているとだけ書いておこう」となっており、抱きつかれて随分迷惑だったかも知れません。

 こうして嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、日米和親条約を締結。200年以上におよぶ徳川の鎖国時代は終焉を迎えました。



※1 ヘロデ王・・・ユダヤの王でイエス・キリスト誕生当時の専制君主
※2 レヴァディ・ジョンソ・・・アメリカの弁護士、上院議員。駐英公使となりイギリス外相クラレンドンとの間で、ジョンソン・クラレンドン条約の交渉を行った。
※3 南北戦争直前の第十五代アメリカ大統領。


参考文献
 ちくま新書「幕末外交と開国」加藤祐三(著)
 ハイデンス「ペリー提督と開国条約」今津浩一(著)
 小学館「ペリー提督日本遠征日記」M・C・ペリー(原著) / 木原悦子(訳) / 童門冬二(解説)
添付画像
 伝来した機関車模型嘉永年間渡来蒸気車(PD)

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