江戸時代、馬車がなかったわけ

江戸時代は労働組合が不要だった。




 「えいほ、えいほ」と江戸時代、人を運ぶ乗り物は駕籠があったのは知られているでしょう。乗り心地はどうだったのか。幕末に来日した外国人の観察を見てみます。

 イギリス公使、オールコック 安政6年5月3日(1859年6月4日)来日
「われわれは、きゅうくつな思いをさせられた。というのは、乗物(ノリモン)と呼ばれる日本の籠のなかへ、まるで荷造りをするかのように手足やからだを折り曲げてはいって、前と後ろに二人ずつ、合計4人の男の方にかつがれてゆかねばならなかったからである」
「そのせまい壁の中に手足を閉じ込めて、背骨を半ば脱臼させるような苦しみを実際に経験したことのない人々全部のために、かかげておく」

 外国人にとっては苦痛だったようです。米総領時ハリスの通訳だったヒュースケンも駕籠に乗った感想を「脚をもてあまし、ありとあらゆる苦痛をこらえて」と書いており、外国人は正座ができないのと駕籠のサイズが小柄な日本人用だったのが苦痛の原因でしょう。

 オールコックは日本人がもっと簡素な駕籠に乗っているのを見て驚いています。
「日本人はその(駕籠)の底に、木綿の布団(座布団)をしく。そのうえへ、足を折り曲げてすわるので、あたかもひざから下は切断されたのかのように見える。街中や公道を、数時間のあいだ、あるいは丸一日中、それにのって運ばれてゆく何百人という男女は、たいして疲れもしなければ、苦しみもしないようだ。わたしにとってはひじょうな驚きであった」

 同じ頃、欧米では馬車がありましたが、江戸日本は馬車がありません。鎖国しているといっても長崎ではオランダ、支那と貿易していましたから、外国の情報は入っていたはずです。馬車がなかったのは幕府が禁止していたからでした。

 荷物の運搬にしても牛に車をひかせる牛車がありましたが、これを使えたのは江戸と京都だけです。江戸では「大八車」も使えましたが、大阪はこれより小型の「べか車」「へか車」しか使えませんでした。輸送の主役は船で、江戸も大阪も水路が張り巡らされていました。

 寛政の改革1787年〜1793年)のとき、大阪の中井竹山という儒者が、馬車の採用を提案しています。輸送力がアップし、単位当たりの運送コストも安くなります。参勤交代でも使用すれば諸大名の財政も楽になります。しかし、老中・松平定信はこの意見を採用しませんでした。軍事利用への懸念もあったと思いますが、馬車の採用は、急激な社会変化をもたらすというのが大きな理由のようです。

 馬車を採用すると少人数で大量の輸送が可能になりますから駕籠ひきや馬方(馬子)、人足は失業者がでます。船の輸送分が食われますので、船乗りも失業者がでます。また、道路や橋の傷みが激しくなります。舗装や橋の耐用年数を見直さなければならなくなるでしょう。交通事故のことも考えなければなりません。当時、大八車に轢かれて死亡する人もいましたから、馬車を採用すれば交通事故は劇的に増えたでしょう。つまり、馬車の採用は社会構造が劇的に変化するわけで、幕府はこれを恐れたのでした。

 現代の合理主義的思考でいえば、経済成長を伴わせば失業の問題も解決すると思うでしょうが、この思考は合理性を追求し続ける限り様々な問題を引き起こしつつ、果てしない膨張へと向かうわけで、江戸時代の日本は国内の循環で需給一致していましたから、現代のような膨張志向は不必要でした。また、西洋は「奪い合いの精神」であり、農耕民族の日本人は「分かち合う精神」ですから、こうした精神文化の面でも大量の失業を発生させる馬車は採用しにくかったのでしょう。江戸日本は労働組合のいらない全国民幸福型社会でした。



参考文献
 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)
 岩波文庫「ヒュースケン日本日記」青木枝朗(訳)
 講談社文庫「大江戸リサイクル事情」石川英輔(著)

添付画像
 江戸へ向かうオランダの使節団1826年(PD)

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